1988 Fiscal Year Annual Research Report
八、九世紀におけるフランク王国の統一と解体のメカニズム
Project/Area Number |
63510214
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Research Institution | Aichi Prefectural University |
Principal Investigator |
日置 雅子 愛知県立大学, 文学部, 助教授 (40086187)
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Keywords | フランク国家の統一と解体 / 統一理念と分割理念 / カロリンガー皇帝権 / 帝国の統一と教会の統一 / フランキア |
Research Abstract |
フランク・カロリング国家の解体要因を究明するにあたり、本研究ではフランクの国制概念の変遷に着目し、中でもフランク王国を政治地理的に象徴する「フランキア」という概念を取り上げてみた。この名称は本来、フランク人が北ガリアに定住し建国するに至った地理的範囲を指す地名であるが、その故にまた、彼らの「本来のフランク王国」を政治的精神的に示威する名称でもあった。カロリング期に入ってカール大帝からルードヴィヒ敬虔帝にかけて、「国家の統一」という政治的プログラムの中で、複数の相続権者によるフランキアの分割相続とそれに伴う共同統治の脆弱性を止揚すべく、その一括相続に向けての国制上の努力が展開される。それは806年、殊に817年の帝国令に顕著である。その際フランキアの中核は、帝国の座アーヘンを擁する中部フランキアであり、ヴェルダンの帝国三分割統治(843)を経て少くともロタールI.まではその事実に変わりはない。ところが今回の研究で、MGH所載の各種史料におけるフランキアの用例を抽出してみると、その国制的意味の矮小化が855年以降に顕在化することが判った。先ずロタールI.を継承したルードヴィヒII.の皇帝権がイタリアに移行することによって、中部フランキアは帝国支配の中枢から乖離する。更にメルセン条約(870)によって当地が東西両フランクに分割・併合せしめられて以降、フランキアの名称は、国王文書等において事実上東と西のフランク分国がそれぞれに自己を表現する用語と化してゆく。統一フランク王国の解体は、以上のように、中部フランキアが全体帝国の要としての政治的存在を停止した帰結である。更にその内在的要因として、王国の一円的支配の組織たる伯制度や殊に王使制度の当地における変容、並びにそれと中部のフランク聖俗貴族の封建的領域権力化との関係が解明されねばならないが、それについては研究途上の為、次年度に回したい。
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Research Products
(2 results)