Research Project
Grant-in-Aid for JSPS Fellows
幕末期ペリー来航を直接的契機として急速に政治的公共圏が形成されていく背景には、近世後期以降の海防への対応が深く関係していることが明らかになった。対外情報の厳しく管理された近世期において、それは直ちに世論の形成を促すものではないが、軍役・国役を通じた全身分の海防への動員は、「日本」という想像力を諸身分の中に醸成していく。これは当初徳川将軍家を頂点とした近世的な役負担システムとして機能する。しかし、嘉永初年の異国船の相次ぐ目撃情報、さらにペリー来航情報によって、萩毛利家は、徳川将軍家に対する諸役遂行義務よりも対外危機への対応を前面に掲げた海防強化のための宣伝を行なうようになる。武士身分の武装自弁の軍役負担者としての自立性・自律性は、海防政策も含め、そこから派生するあらゆる問題に対する発言権を要求する要素となる。また、実態として武装自弁出来ない武士身分が大量に発生している一方で、地域の中には自ら武装し得る財力を蓄え、その下に村民を指導し得る層が形成されている。近世後期の公論の担い手として、まず武士、そして豪農商層が登場してくる背景には、近世の身分制が深く関与しているのであり、その一つの指標となるのは、対外危機に対する貢献である。しかし、その過程で海防政策そのものに対する反対意見の結集も見られ、この問題はそこに動員される多くの階層を含みこんで、政治論議の場を形成することとなるのである。