統一イタリアの都市計画とルネッサンス・リヴァイヴァルに関する研究
Project/Area Number |
01J05183
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Research Category |
Grant-in-Aid for JSPS Fellows
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Allocation Type | Single-year Grants |
Section | 国内 |
Research Field |
Architectural history/design
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Research Institution | The University of Tokyo |
Principal Investigator |
横手 義洋 東京大学, 大学院・工学系研究科, 特別研究員(PD)
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Project Period (FY) |
2001 – 2003
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Project Status |
Completed (Fiscal Year 2002)
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Budget Amount *help |
¥1,600,000 (Direct Cost: ¥1,600,000)
Fiscal Year 2002: ¥800,000 (Direct Cost: ¥800,000)
Fiscal Year 2001: ¥800,000 (Direct Cost: ¥800,000)
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Keywords | イタリア / ミラノ / 都市計画 / 修復 / ベルトラーミ / ボイト |
Research Abstract |
ミラノのスカラ広場に面するパラッツォ・マリーノのファサードは、建築家L.ベルトラーミ(Luca Beltrami,1854-1933)による初期の実作である。もともとこのパラッツォ・マリーノは、16世紀の建築家G.アレッシ(Galeazzo Alessi,1512-1572)によって建てられた貴族邸宅であったが、19世紀後半にミラノ市庁舎として転用されることになった。その際、都市整備によってスカラ座前に新しく広場を設け建物の西側部分が取り壊されたために、本来見えるはずのなかった裏側が露出することとなった。スカラ広場側の新ファサードは最終的にベルトラーミによって完成させられるのであるが、実現までには設計競技後の一時凍結を含め20年足らずの歳月を要した。その推移はイタリアにおける19世紀後半の建築事情、建築修復史の展開においてきわめて興味深い転換点を示すものである。 1880年作に修復計画への支持が全面的に承認されたという事実は、イタリアにおける建築修復史の流れからも裏づけられるものである。まさにこの年代にイタリアの建築修復理論は大きく前進していった。建築修復史の流れにおいては、なんといっても1870年代におけるベルトラーミの建築修復に対する先見の明が注目に値するものである。それがいかほどの確信においてなされていたかははかり知れないが、少なくともベルトラーミには16世紀の建築遺産を敬うことにまったく躊躇がなかった。当時精力的に中世主義を推進し時代を牽引していたボイト、まだそれに関わらずに無垢でいられた若いベルトラーミ、この立場の違いこそがパラッツォ・マリーノのファサードにおける両者の態度を決定づけた。そして、来たる時代はポイトの方に姿勢の変更を迫ったのであった。
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Report
(1 results)
Research Products
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