中世文芸における花と自己変容-世阿弥能楽論を中心に-
Project/Area Number |
04J06423
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Research Category |
Grant-in-Aid for JSPS Fellows
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Allocation Type | Single-year Grants |
Section | 国内 |
Research Field |
Japanese literature
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Research Institution | Kyushu University |
Research Fellow |
岩倉 さやか 九州大学, 大学院・人文科学研究院, 特別研究員(DC2)
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Project Period (FY) |
2004 – 2005
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Project Status |
Completed (Fiscal Year 2005)
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Budget Amount *help |
¥1,700,000 (Direct Cost: ¥1,700,000)
Fiscal Year 2005: ¥800,000 (Direct Cost: ¥800,000)
Fiscal Year 2004: ¥900,000 (Direct Cost: ¥900,000)
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Keywords | 世阿弥 / 花 / 有主風 / 安位 / 離見 / 中世文芸 / 幽玄 / 心 |
Research Abstract |
今年度は、科学研究費の補助を受け博士論文を執筆した。以下はその要約である。 本論文の立場は、「能」の完成者世阿弥が残した能楽論の中で綿密に語られる「花」に着目し、それが究極的には人の精神の深奥と存在の根拠に立脚していることを論ずるものである。 第一章では、能が実現する成立の場をめぐって、世阿弥が示した「序・破・急」という言葉が、存在の始源に対する徹底した受動性を端緒とし、やがてそれが否定に転ずるところにさまざまの演能の態(わざ)が演ぜられ、最終的には全一的な究極に統一せられてゆくという、舞台芸術の本質を述べるものであることを説明する。 第二章では、「能」に具体化される「心」のあり方について、能の全体構造が、一瞬一瞬の個別の「態」においても基本的に必ず息づいてあるべき理由を追究して説明する。存在の始源にある造物主の無限な働きは、「万能を一心に綰ぐ」という演者の心、そしてその心に支えられた態によって辛うじて具現化される。この論證に到達することによって、能が漸く時空を超えて普遍的な芸術になったのである。 第三章は、「心」のはたらきから一瞬現出した舞台の「花」が、いかにすればその存在を証明されるか、という本論文の中心的課題が追究される。時間の前で徹底して受動的、敗北的なものである「ひと」が、一瞬実現した「花」-造物主の精華-を、持続して保つことはできない。この難関を突破するために、世阿弥が用いたのが「なみ(無化)する」という自己客観化、自己否定の論理であった。自己を否定して飛躍することを通じて、始源の存在ではない一己の人間が、瞬間的に時間を超越し、さらに自(演者)他(見者)二重の視座を獲得することにおいて空間を超越するとき、一瞬「花」は咲くのであるが、その瞬間にこそまた自己否定は要請されるのである。かくて有限なる舞台の上に「花」は、演者の絶えざる自己変容という在り方として咲くことができる。
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Report
(2 results)
Research Products
(4 results)