七世紀の東アジアにおける塑像について(当麻寺の仏像をとおして)
Project/Area Number |
11J05895
|
Research Category |
Grant-in-Aid for JSPS Fellows
|
Allocation Type | Single-year Grants |
Section | 国内 |
Research Field |
Aesthetics/Art history
|
Research Institution | Waseda University |
Principal Investigator |
金 志虎 早稲田大学, 文学研究科, 特別研究員(DC2)
|
Project Period (FY) |
2011 – 2012
|
Project Status |
Completed (Fiscal Year 2012)
|
Budget Amount *help |
¥1,300,000 (Direct Cost: ¥1,300,000)
Fiscal Year 2012: ¥600,000 (Direct Cost: ¥600,000)
Fiscal Year 2011: ¥700,000 (Direct Cost: ¥700,000)
|
Keywords | 当麻寺 / 丈六塑像 / 弥勒 / 阿弥陀 / 当麻曼荼羅 / 中将姫 / 喪葬 / 二上山 / 塑像 / 川原寺 / 伽藍配置 / 藤原京 / 藤原京条坊 / 寺院占地 |
Research Abstract |
今年度は、昨年度の当麻寺本尊の様式研究と当麻寺の伽藍配置の研究に引継ぎ、当麻寺における信仰の問題について検討することにした。 まず当麻寺本尊の尊名の問題について検討した。現在当麻寺本尊の尊名は弥勒仏として伝わっているが、創建当初から弥勒であると伝える同時代の史料はなく、当麻寺本尊が創建当初から弥勒如来として制作安置されていたかははなはだ疑問である。当麻寺は古代日本において死者が往く場所として認識されていた二上山の東麓に立っており、当麻寺を建立した当麻氏は、その二上山の入口で喪葬関連の任務を担っていた氏族であったこと、そして、『日本書紀』や『続日本紀』などには当麻氏が天皇の死後に誄をのべるなど、喪葬関連の記事に多く登場していることに注目した。さらに七世紀後半の日本では、弥勒下生信仰に基づいた弥勒如来の造像例がないことを考慮すると、当麻寺本尊の尊名は弥勒ではなく阿弥陀とみるのがより自然な解釈である。 つぎに当麻寺が浄土信仰の代表寺院として発展した背景について考察した。治承四年(1180)に平家勢の攻撃によって被害を受けた当麻寺では、復興するための手段として、聖徳太子信仰を利用しようとしたが、太子関連寺院として発展する要素がなかったため、新たに曼荼羅堂の当麻曼荼羅の存在に注目しなおし、太子信仰から当麻曼荼羅信仰に方向を転換した。その後、当麻曼荼羅は浄土宗西山派によって日本全国へ転写されるようになり、その結果当麻寺は当麻曼荼羅と中将姫の信仰の中心地として日本全国へ知られるようになった。鎌倉時代以降、当麻寺の復興事業が順調に進んでいることを考えると、当麻曼荼羅と中将姫を中心とする浄土信仰は成功したといえよう。 報告者は、未だ解明されていない当麻寺史の全貌について美術史、仏教史、考古学の方向から新たな解釈を試みた。今後の当麻寺研究において新しい角度からより活発な議論が出ることを期待する。
|
Current Status of Research Progress |
Current Status of Research Progress
2: Research has progressed on the whole more than it was originally planned.
Reason
当麻寺の創建と信仰の問題について、彫刻・絵画・文献史・仏教史・考古学などの関連分野から検討ができ、これらの研究をまとめた学位請求論文を早稲田大学大学院文学研究科に提出し、2013年3月15日に博士(文学)の学位を取得した。
|
Strategy for Future Research Activity |
本研究では、当麻寺の丈六塑像の様式について研究をしたが、丈六塑像の構造の問題については十分な検討が出来なかった。今後はこの研究成果を活かして、中央アジア、中国、韓半島、日本に伝わる丈六塑像、あるいはそれ以上の巨大な塑像の制作技法についてつづけて研究していく。
|
Report
(2 results)
Research Products
(4 results)