本研究では、渤海使を中心とする外交使節の日本への入境経路や発着地について検討することで、歴史書からは断片的にしか窺い知ることができない日本の古代国家の外交基調を明らかにすることを目的とした。 しかし、渤海国は独自の史書を残しておらず、また日本や中国の正史における渤海に関する記述も不十分であるため、直接的に渤海や渤海使の具体像を明らかにすることは困難である。そこで、他の外交使節の入境経路や来着地での活動を検討することで、渤海使を東アジアの外交使節全体の中で相対化することを目指した。 まず、高句麗や渤海からの使節の来着のあり方について、史書を基に基礎的な研究を行った。さらに、大韓民国の済州特別自治道において耽羅関係の調査を行い、耽羅と古代日本との交流のあり方を検討した。また、石川県金沢市において古代の交流に関する出土遺物の調査を行い、福井県敦賀市においては松原客館の調査を行うなどした。 こうした研究・調査の結果、外交使節の入境地は前代からの交流が行われていた場である事例が散見された。さらにそうした地域では、ヤマト政権とは別に、独自に対外交流を担っていた在地勢力が存在していた。そのため、在地勢力が中央の混乱期に対外的な活動を行う可能性があったと考えられる。例えば、藤原仲麻呂の乱など中央における政変時に、入境経路の変更指示を行うなどの外交基調の変化がみられる。 なお、研究成果をもとに、奈良~平安時代にかけての日本の対外関係の変遷と、東アジアの国際情勢を絡めて理解させる授業プログラムを開発し、実施した。複雑な国際関係を理解する際に、内政と外交を合わせて考えることは、生徒にとって効果的な学習につながった。
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