天和日光地震・五十里洪水と被災村落の百姓協同・生業選択-近姓百姓の災害対応力-
Project/Area Number |
25904010
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Research Category |
Grant-in-Aid for Encouragement of Scientists
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Allocation Type | Single-year Grants |
Research Field |
史学
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Research Institution | 栃木県立文書館 |
Principal Investigator |
平野 哲也 栃木県立文書館, 指導主事
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Project Period (FY) |
2013-04-01 – 2014-03-31
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Project Status |
Completed (Fiscal Year 2013)
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Budget Amount *help |
¥500,000 (Direct Cost: ¥500,000)
Fiscal Year 2013: ¥500,000 (Direct Cost: ¥500,000)
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Keywords | 災害史 / 生業史 / 地域資源 |
Research Abstract |
天和3年(1683)の日光地震によってできた地震湖(五十里湖)に集落と耕地(皆畑村)を飲み込まれた下野国塩谷郡五十里村の百姓が、享保8年(1723)の五十里湖決壊の後、集落跡地に帰住し、村の復興、生業と暮らしの再建に励む過程を追究した。百姓や村が自然災害による環境の激変にいかに対応し、集落形成や生業のあり方、地域資源の利用をめぐってどのような判断・行動をとったか、解明した。 五十里村名主赤羽家の伝来文書を中心に周辺地域の史料を広く収集・分析し、現地調査や聞き取り調査、絵図・地図の読解を重ね合わせて、災害の実態や村の生業・暮らしの具体的な復元に努めつつ、百姓と村の営みについて考察し、以下のことを明らかにした。 集落が湖に沈んでいた40年間、五十里村の百姓は湖岸への移住を余儀なくされたが、村の結束を維持し、湖上舟運を生業に組み込んで暮らしを立て直した。湖水抜後、同村の百姓は、湖底から現れ出た旧集落跡地に集団で再移住し、旧畑の再開発に尽力した。ただし、村域の被災状況には差があり(土地の過半は地表に現れたが、村の南部は湖の残水に没したまま)、屋敷地や畑の位置取りや配分方法に関して百姓間の不公平が予想された。そこで五十里村では、百姓の公平が保てる配分条件を模索・考案し、すべての百姓が納得できる村の合意をつくりあげた。百姓間の対立を未然に防ぎ、自然環境の実情に適応した村づくりを推進したのである。頻発する水害に対しても、村の共有地を使った屋敷地の再編成や畑の割替によって、危険分散、防災・減災の対策を講じていった。村の調整能力と事業遂行能力は、集落の安全と機能強化、生業基盤の安定化に結実した。湖底時代に蓄積された沃土の所持・利用をめぐって隣村との確執も生まれたが、双方の利害の一致点を見出し地域社会として新たな資源利用秩序を自律的に形成した。ここには、環境の変化を進んで受容し、自らの生業に活かそうとする百姓の知恵と工夫が見て取れる。百姓は柔軟で粘り強い災害対応力をもち、村に結集した協同の精神、社会の力によって災害復興を成し遂げていったのである。
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Report
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Research Products
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