研究概要 |
本研究は,数年以前から,1990年8月ベルギ-のル-ヴァンで開催される国際経済史学会における報告として企画されたものであった。文部省科学研究費補助金による「国際学術研究」とし,まず準備のためのワ-クショップを平成元年10月東京において,平成2年5月レニングラ-ドにおいて,2度開催して相互の研究について討論を重ね,8月のル-ヴァンにおいて報告を行い,今後は各論文をさらに手入れしたうえ,1991〜2年中に出版する予定である。 この研究の目的は,19世紀末から20世紀初頭にかけての時期における日本とロシアとは,後れて工業化を開始した国として,多くの点で類似した特徴をもっていた。両国はともに強力な指導者(松方正義やセルゲイ・ウィッテ)のもとに,財政金融政策を推進し,産業の発展を企図したこと,19世紀末にそれぞれが農業改革(ロシアにおける1861年の農奴解放,1906年以後のストルイピン改革,日本における1873年の地租改正)が行われたこと,19世紀末からの急激な鉄道など社会資本の建設,そのうえに進められた工業化の急進展などがその主要な点であって,両国の比較を行うことは,後進国の工業化を論ずるうえで,極めて興味深いものである。 この研究は,そのために,まず工業化の前提としての,人口と農業の問題について日本とロシアの両国についての検討が行われた(日本については速水,斎藤,レシチェンコ,ロシアについてはゴリュ-シキン)。次いで,両国の工業化の初期の状況について,農業改革と農村工業の問題が分析された(日本についてはミハイロヴァ,ロシアについて鈴木,小島)。本格的な工業化過程と,それにともなう農業の変容がこれにつづいて論じられた(日本については中村,ロシアについてはコヴァルチェンコ,フルセンコ,ヴィノグラドフ,コレ-リン)。 両国の経験は,もちろん一様ではない。広大なロシアにおいては,まず国内市場を一つに結ぶためにも,処女地であったシべリアを開拓するためにも,まず鉄道網が必要とされ,そのために大量の外国資本を導入することを恐れなかった。それとともに,東方への移民が活発に進められた。日本では同様に鉄道網の建設と,未墾の北海道の開拓を進めたが,外資の導入を警戒し,自国内の資本でこの事業を行おうとしたが,外資なくしては日露戦争を戦うことはできなかった。この点については,アナ-ニチ論文がその比較を行って,興味深い成果を収めている。日本は外資導入を好まなかったが,戦争のためにはやむを得ず,外資をいれ,けっきょくはロシアと類似の道を辿ることになった。相違点の最大のものは,ミ-ル共同体による規制が厳しく,農奴制が強固に存続していたロシアの農業と,家族の小農制が一般化していた日本との差であろう。ロシアの農奴解放は,高額の支払いを農民に強制したために,その成果はなお問題を残し,ストルイピン改革を必要とするに至った。日本の場合,地租改正によって,農業の近代化は一応完了し,高率の地代のために小作農が苦しむというような事実はあったにせよ,ロシアのような問題は起こらずにすんだのであった。 以上のように,共同研究では,一見大きく異なる帝政ロシアと明治の日本とが,後発工業国としての特質の点では多くの共通の体質をもっていたことを明らかにした。農業問題その他の点で決定的な相違を秘めていたのは事実であるが,いずれかといえば,その共通性がクロ-ズ・アップされたことがこの研究の最大の特色であった。今後に残された課題としては,むしろ17〜19世紀前半の両国の社会経済構造の比較を行い,そこから近代に引き継がれたものと,消滅したものとを対比することによって,工業化時代の両国のありかたを照明することなどがあげられよう。
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