現在古義吉宗で用いられている声明は、進流のみである(地方にはその地に伝えられた声明もある)。この点については様々な論議があるようだが、一応は「全国的に統一された声明」を唱えているかのように思われている。しかし実際はばらばらで、しかも同一人であってもほぼ同じ声明を唱えられる者は全国的にみて何人いるであろうか(声楽曲としてのテクニック、唱歌法等について-洋楽にくらべて)。それはさておき論題の仏教音楽であるが、現代語としての仏教音楽とは何であるかはなかなかむつかしい事であり、仏教音楽即声明とはいえないのである。経典、詩等にメロディ-をつけて声音楽曲とは限らないからである。即ち器楽曲も含まれるからである。仏教に関した素材や、標題をつけた音楽は数多くある。先学はこの仏教音楽の一種である声明、特に真言宗の音楽曲に的をしぼり、更に空海帰国後三百有余年間で、混乱多様化した各派声明を一応四派に分類した場合、一見その譜を見れば何派の声明であるかわかるとしている。しかし現在、その譜面すら見ることが出来ない。研究者はこの久安3年仁和寺大聖院において四派に分けられた前後の譜を研究するものである。声明は言うまでもなく音楽曲である。天台宗の三十二相のように雅楽器を用いて伴奏される声明は真言系にはみられない。しかし久安3年の時は進流、醍醐は横笛、相応院(菩提院)・新相応院(西方院)は琴の譜によるとされている。よって当時は楽器による伴奏曲、器楽曲があったと思われるが、現在は散逸している。声明は譜(博士)記録等だけでは語れず、実際に譜通り唱ってみて始めてわかる。呂律はどのように違うのか、上野学園日本音楽資料室に2本所蔵されている明治魚山には一応説明されているが、これについては「詳しくは師について知れ」とあるように、一概に文献だけで論ずることの出来ない側面がある。
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