研究概要 |
1、中国地方のたたら製鉄は、17世紀末に高殿鑪が成立して生産量が飛躍的に増大し、近世社会の鉄需要に応えられるようになった。それは、中世以来の野だたら段階にあった踏吹鞴鑪が改良されたもので、銑押し製鉄法を主軸とし、鉄山労働者集団の居住区「山内」の形成や、高殿建物・施設の整備,天秤鞴の発明・改良などを通じて〓鉄・銑鉄(錬鉄)の大量生産を実現させたのであった。 2、この高殿鑪の技術が中国地方において一般化したのは、18世紀の前半期であった。そして後半期になると,銑押・〓押製鉄法の技術分化や、製鉄炉の地下構造(床釣り)の大規模・複雑化,高殿形態の丸打・角打方式など、鉄生産の質量に関係する技術的工夫・改良が各地で行われ,伯耆・出雲・備後・中備後・石見・西石見五ケ所流などの製鉄技術の地域的諸流派が見られるようになった。 3、また、中国地方の高殿鑪技術は、18世紀半ばから九州・四国・関東・東北地方へも伝播した。東北地方へは、18世紀末に白河藩の松平定信が小半弓藩営鉄山(福島県玉川村)を経営したのをはじめ、八戸藩が玉川鉄山(岩手県軽米町)および仙台藩の橡沢鉄山(宮城県大村村)などが数えられる。関東地方では赤沢・大塚両鉄山(栃木県塩谷郡)があり、四国地方では、土佐藩の柏尾山鉄山(高知県吾川郡)や森沢鉄山(高知県幡多郡)などである。さらに九州地方では、福岡藩の眞名子鉄山(北九州市八幡区香月)および飫肥藩の家一郷鉄山(宮崎県宮崎郡)などであった。これら各地方の高殿鑪の経営は、18世紀半ば以降における諸藩の国益政策が,先進地の製鉄技術の導入と鉄山労働者の移入によって、自領の産業振興をはかり経済的自立を達成しようとした結果である。
|