研究概要 |
本研究は昭和62年度に始まった重点領域研究「東アジアの比較研究」の「東南アジア華人社会と東アジア発展に関する比較研究」を発展させる為の現地調査を軸とする研究である。その趣旨は東南アジア諸国の発展近代化の特色を華人社会の近代化に焦点を当てて解明することにある。その為伝統な中国本土志向性,即ち僑民意識が現地の近代化の過程で如何様に変化しているのかを調査した。現地の華人は歴史的な事情の中で,中国志向から現地帰属志向の方向に進んでいる。特に戦後10年間の変化は激しかったが,変化は現在も続き,表層から深層に及んで居り,今日では不可逆な状況に入っている。 民族のアイデンティティを形成するのは,一般には血統・伝統文化・価値観・言語・生活習俗・歴史の共有などであるが,中でも言語は具体的数量的に検証しやすい部分である。それで,我々はこの分野を選び共同研究の第一のテ-マとし,調査研究することにした。調査の対象は華人中学生に限定し,地域は半島部マレ-シアの亜海岸と東海岸の二カ所とした。出来るだけ直接に教室に赴いて,学生に直接対応しながらアンケ-ト調査を実施するのを原則とした。なおアンケ-トの前後を利用して,学生との会話を通じてかなりの調査をすることができた。 この国では政府経営の中学を国民中学,華人経営の私立中学を独立中学と言うが,両種の中学を通じて調査できたので,或る種の比較調査も可能となった。西海岸はマラッカ・ムア-ル・利豊港の三地。東海岸はコタバルの一地である。マラッカは独立中学一校,国民中学二校,ムア-ル方面では独立中学三校,国民中学三校,コタバルでは,国民・独立各一校で,対象被験学生は760人である。アンケ-トの設問は,言語生家,読書,儒教意識,生活習慣,民族について等19項目にわたっている。調査の結果は現在も計算中なので,完全な形では記述できないが,目下次のことが概ね判明している。マレ-シア政府の華人に対する差別政策は政治・経済の側面に止まらず,教育・文化・言語の各分野に及んで居り,実際の日常生活の中で被害者意識を抱いて居り,特に言語生活の前途について優慮している。華人学校は教育内容と,行政上の施策で差別政策の影響を蒙って居り,華人は諸々の不利な條件の下におかれている。しかし,このような不利な條件や差別待遇は却って華人集団,華人学校当局者の危機感を刺戟し,逆に華語教育を盛んにすることになっている。政府系国民中学でも,華人独立中学でも華語教育の熱意は一般に甚だ高い。課外サ-クルによる華語文化教育も無視できない效果を挙げている。歴史的に見れば,早くより華語を襄失したババ集団も,政府の華人差別政策のために,自己の立場を明らかにせざるを得なくなり,逆に華語を再び学習する運動を起すに至った。華語擁護運動は華人の反差別運動の中心課題となっている。但し東海岸では華人人口比率が相対的に高くないので,民族問題は東海岸ほどきびしくない。 華校学生の華語運用能力は,一般的には話す力,聞く力は比較的に強いが,書く力と読む力は稍劣るように見えた。その結果として華語能力の水準は高い者と低い者の二極に分化する傾向がある。これは今後の観察分析の上で注意すべき点であろう。華人学生のマレ-人文化に対する認識や融和的傾向は親の世代よりも格段に進んでいる。上記の二極分化とマレ-人文化への認識の向上は,華人の未来像に一つの暗示を与えるであろう。しかし,華人学生はこの土地への愛情や忠誠心を抱くものの,自己の前途には懐疑的な者も少なくない。 華僑から華人への転化は基本的に完了したが,華人は自己のアイデンティティを確立し,新しい華人像の形成は完了していないものと考えて居る。如何なる未来像に向って進むべきか,混沌とは言わないが,未確定要素も少なくない。華人のもつ危機感は,外圧による側面があるが,同時に自己の内面に包藏する矛盾や不安定さに由来する所もある。
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