研究課題/領域番号 |
02041103
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研究種目 |
国際学術研究
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配分区分 | 補助金 |
応募区分 | 学術調査 |
研究機関 | (財)古代オリエント博物館 |
研究代表者 |
堀 晄 古代オリエント博物館, 研究部, 学芸課長 (50124243)
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研究分担者 |
藤井 純夫 山陽学園短期大学, 国際教養学科, 講師
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研究期間 (年度) |
1990 – 1991
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研究課題ステータス |
完了 (1991年度)
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配分額 *注記 |
6,500千円 (直接経費: 6,500千円)
1991年度: 4,000千円 (直接経費: 4,000千円)
1990年度: 2,500千円 (直接経費: 2,500千円)
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キーワード | イラン / 青銅器時代 / シャ-ダ-ド / 交易 / ウルク文化 |
研究概要 |
本研究は、南メソポタミアで前4千年紀後半に成立した古代都市文明が、どのような形で周辺の地域、特にペルシア湾を通してサウジアラビア沿岸地域やイラン東南部地域に波汲していったかを考古学的に明かにしていくことを目的としていた。 農業生産性が高く、それゆえ人口増加の著しかった南メソポタミアでは、その結果生じた人口圧を回避するために社会の階層化が進展し、都市文明社会を形成していった。この都市社会を維持するためには多量の金属や貴石、木材等の資源を必要とする。これらの資源は南メソポタミア外の地域に求めざるを得ず、その交易活動を支えるために、最初は南メソポタミア主導の交易網が作られ、その交易活動にまき込まれた土着の諸文化が都市文明の種々の要素を取り込み、都市化が進展するというプロセスが想定されるのである。 上記のプロセスはシリア方面では、ハブバ・カビ-ラ遺跡における交易植民都市の成立と、続くエブラ王国の成立という過程の中である程度実証されている。しかし、サウジアラビア沿岸部、及び東南イラン方面では充分な研究の蓄積が行われておらず、今後の研究に待つところが大きい。特にサウジアラビア沿岸地域では、前5千年紀から4千年紀前半のウバイド文化の流入と前3千年紀初頭のジェムデド・ナス-ル文化との関連が認められるが、南メソポタミアの都市文化の勃興期であるウルク文化との関係が全く不明なままとなっているのである。 本研究は上述のような問題に関連する遺跡のジェネラル・サ-ヴェイとして位置付けたもので、その際、ウルク文化波汲のメルクマ-ルとなるのは遺跡表土に散布する土器片の中にウルク的な土器が含まれているかどうか、特にビベルド・リム・ボウルと呼ばれる粗製無紋の碗形土器の存否である。この種の土器が発見されれば、南メソポタミアの人々が直接その他に来て交易活動に従事していた可能性が高く、発掘調査を行えば、円筒印章や封泥、プロト・エラム文字粘土版などの出土が期待出来るのである。今回の調査では、湾岸危機に伴う情報変化のため、サウジアラビアにおける調査が実施出来ず、平成三年度の調査として東南イランでのみ実施した。 平成三年度の調査では、イラン東南部、ル-ト砂漠の西端に位置するシャ-ダ-ド遺跡に重点を置き、同じワジ水系に含まれる谷で遺跡分布調査を行った。このシャ-ダ-ド遺跡は1960年代末にイラン考古学センタ-等の手によって試掘が行われたが、極く簡単な概報が出版されただけで、全貌をつかむことが非常に困難だったのである。 本調査の結果を要約すると、 (1)シャ-ダ-ド遺跡の全面を踏査したが、ウルク的な土器は1点も採集されなかった。採集された土器は土色地無紋土器、及び赤色地黒色彩文土器で、前3千年紀後半に位置付けられる。概報告に示唆されている前4千年紀ー前3千年紀という年代観は明かに巾が広すぎるもので、都市文明波汲の第2段階、すなわち土着の文化による広域交易網への参入を物語っているのではないかと思われる。 (2)シャ-ダ-ド遺跡と水系を同じくする谷に、同時期、あるいは先行する時期の遺跡が認められないということは、(1)に述べた可能性を支持するものである。 (3)ケルマンの南方の丘陵地帯に位置するタイ・イ・イブリス遺跡でウルク様式の土器を確認したが、銅鉱山の分布するこの地域が交易綱に最初に組込まれたことを物語る。農耕が可能なこの地域を後背地として、更に東方に交易都市としてのシャ-ダ-ドが営まれるようになったが、その契機がアフガニスタン西部の錫なのか、あるいはパキスタン西部のラピスラズリなのかは、今後の調査が必要であろう。
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