研究概要 |
イタリア・ポンペイ遺跡の都市形成とその最終局面における都市機能の解明を目指し,平成2年9月にまず先遺隊が出発,関係各方面との折衝や宿舎設定を行った後、同11月より約2カ月に亙って現地での調査を実施した。調査の内容は以下の通りである。まず都市形成史の観点からのアプロ-チとして,その市街地形成過程を,街路網の形状と街区(インスラ)の造築の面から明らかにするため,ポンペイ市街地を南北に縦断するスタビア街以東の所謂『新市街地』を対象に,街区を囲繞する歩道の縁石外縁部を精密に測量した。この地区においては,過去に幾種類かの地図が出されてはいるものの,いずれも主として航空写真に依拠するものであるため,とりわけZ座標のデ-タ精度に難があったが,今回の測量は特にその点に留意して進められた。 この『新市街地』の形成に関しては,研究者の間でも論議が分かれている。その形成期に関しては,大きく分けて前5世紀の所謂第二ギリシア人支配期に帰す説と,前4世紀以降のサムニテ-ス人支配期に帰す説がある。またその形成の様相に関しても,今日見られるところの最終的な形態が一定の短期間のうちに形成されたとする説と,一定の計画の下,長期間に亙って漸次的に形成されたという相反する説がある。今回の調査により判明したのは,この地域における街区は,その地形を考慮しつつ形作られている,ということである。具体的には,この地域の二種類の街区形状のうち長方形のものは,東西方向に起伏が余りみられない地形に沿って造築されているのにたいし,平行四辺形のものはその方向に沿ってかなりの起伏が認められる。更に,両者の中間に位置する台形の街区は,土地の起伏がなだらかになる部分にあたっていることが挙げられる。すなわち,少なくともこの地区においては,都市形成は一時期に行われたと考えられる。 また,一見したところ整然と交差している街路の交点における微妙なずれも,この測量調査の対象とした。このずれの原因が当時の測量精度に拠るのか,あるいは後世の道路の拡幅や縮小,または施工時期や段階の違いに拠るのかは一概には断定できない。現在,街区の幅を1アクトゥス(約35m)とする定説に従い,これを一つの基準尺とした場合の現実との誤差を割り出すため,簡易空撮により撮影された空撮写真を利用しつつコンピュ-タで解析中である。さらに,調査を通じて,歩道縁石の石材に幾つかの種類があり,かなりの改修を経ていることが判明した。そこでその材質と形伏を記録し,分析した。また,石材上に散見される刻印を記録し解読することで,その造修築の痕跡を辿り,歩道の修築状況の復元が可能になった。 一方,都市の機能面からのアプロ-チとして,車道舗石上に残る轍に着目して,市街地内における交通システムの復元を目指した。馬車の出土例によれば,両輪間の幅は140cm弱であり,これが轍と一致することは既に知られている。そこでまず,市内の道路を馬車一台分の幅しか有しない道路と,対面通行が可能な道路とに分けてみた。そうした上で,どのような規制が働いており,それに基づいてどのような交通システムが展開していたのかを明らかにするため,交差点における右左折痕跡,轍の深さ,あるいは轍と歩道縁石や路上の飛石との関係など,轍に関する詳細な観察を行った。地図上では通行可能と見られる道路も,実際は段差を設けたり,立石を置くことによって,通行止めになっていることが多く,その上馬車一台分の幅しか有しない道路が大勢を占めいてることからみて,自在な通行は想定しにくい。交差点における右左折痕に一定の方向性が認められることも,交通規制が働いていたことを物語っている。さらに,従来は対向車を待って進入したのだろう,といわれていた狭隘な道路に関して一方通行であったことが指摘できる例が検出されたことも,自在な通行のイメ-ジを否定するものである。かつては馬車が通行していた道路が,のちに通行止めになった例など,道路の改修を含めて,交通システムの変遷過程を解明する手掛かりが得られた。すなわちポンペイ市域には明確な交通システムが存在していたと言える。
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