研究概要 |
長崎市の西方の海上13kmに位置する小離島・長崎県西彼杵郡高島町は,唯一の基幹産業であった三菱高島炭鉱が昭後61年11月に閉山したあと急激な人口流出に見舞れた。閉山時5500の人口は4ヶ月後の昭和62年3月未までに2500となり,1年後には2,000,閉山4年後から現在まで1200という日本最少人口の町となっている。そして高校の閉校,町立病院(4科)から診療所(内科のみ)への規模縮小,町民1人当りの医療費は全国7000の市町村のうちの上位5位以内という高医療費の負担にあえぎ,町税収の激減とあいまって地域社会は崩壊にひんしている。同町から島外への転出は年齢的にも若く,社会的,経済的に余裕のある人々が中心となっており,現在も高島町に残留している人々は,高年齢で,年金生活者などの無職者層,また単独世帯・高齢者世帯であり,いわゆる社会的弱者が残された。人口の減少に伴ない町内の多くの店が営業を中止した。この結果,町民の日常生活の長崎市への依存度が高まり,長崎市への外出回数が増加した。しかし,この買物行動は買物のために長崎市で船便を利用して出向くというのではなく,医療機関受診のために長崎市に出掛けたときに,まとめ買い,をするという形であった。町財政と地域と唯一の基幹産業であった石炭産業との間の実質的な財政バランスをみると,自治体(町)側が持ち出し超過であり,企業側の受取り超過であることが明らかとなった。これらの学際的地域研究の成果は1991年に「炭鉱閉山の島から学ぶことー長崎県高島における学際的地域研究の試みー」として刊行された。
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