研究概要 |
基本資料の収集に関しては,フレネ教育運動の機関誌“L'Educateur"の1946年から1985年までをマイクロフィルムで入手し,それ以前の機関誌“L'Imprimerie a l'ecole",“L'Educateur proletarien"とともに主要論文の著者,題目などを検索可能な形でデ-タ-・ベ-ス化した。これらの資料の分析から本研究の系統性を考察するに際して,次の三つの時期が重要であることが明らかとなった。 (1)1932年の「学習文庫」創刊前後に,P.オトレの十進学類法を参考として“Pour tous classe"という分類表を作る時期。 (2)フランス共産党の知識人から,“教師の役割(指導性)"などを論点としてフレネ教育に対して批判がなされたる1950〜1954年の時期。 (3)「学習文庫」が小学校低学年用(BTj),中学校以上用(BT2)へ拡充されていく1965〜1968年の時期。 本研究ではこのうちの(2)と(3)の時期に焦点を当て,その研究成果の一部を「フレネ教育に関する論争(1950ー52年)」(三重大学教育学部研究紀要第43巻教育科学1992年3月)としてまとめた。これまで我が国のフレネ教育に関する紹介は,1950ー54年にかけて行われたフレネ教育に関する論争のフレネ教育批判者の側からなされたものが多かったのだが,本研究では論争の原資料にあたることを通じて,批判者の側にもフレネの「興味の複合」論に関する着目があったこと,その論争がフレネに「興味の複合」や「教育技術」といった概念の一層の精緻化を要求したことなどを明らかにした。なお,この論争を経て上記の(3)の時期に至れ間に,フレネとその教育運動のなかでいかなる議論がされていったのかは引き続き検討中である。
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