研究課題/領域番号 |
02610138
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研究種目 |
一般研究(C)
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配分区分 | 補助金 |
研究分野 |
文化人類学
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研究機関 | 国立歴史民俗博物館 |
研究代表者 |
朝岡 康二 国立歴史民俗博物館, 民俗研究部, 教授 (60072162)
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研究期間 (年度) |
1990 – 1992
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研究課題ステータス |
完了 (1992年度)
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配分額 *注記 |
1,500千円 (直接経費: 1,500千円)
1992年度: 300千円 (直接経費: 300千円)
1991年度: 400千円 (直接経費: 400千円)
1990年度: 800千円 (直接経費: 800千円)
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キーワード | 沖縄の町 / マチ / マチグワァー / 寄留商人 / 沖縄 / 寄留民 / 移動 / 町形成 / 商工民 / 先島 |
研究概要 |
那覇における町形成は次の過程を辿った。古琉球・尚真王時代にすでに那覇の都市的形態の基本は完成し、以後長く受け継がれてきた。そして、そこに生まれた商業は女たちが携わるもので、主として芋類・野菜類などの農産物、海産物、小間物などであったことを記録の上から知ることができる。このありかたも以後長く受け継がれて、今日の那覇公設市場の様相につながるのである。女たちは主として東町、久米大道の周辺の道端で座売りをするほかに広場(モー)に集まり、これが後にマチとなり、大正時代には公設化するのである。一方、このような自然発生的な商業拠点は泊往還・首里往還・南部往還の那覇の南北の境に生じて、これらをマチグァー(町小)と呼んだが、同様のマチグァーは首里の三方の境の池端・平良・赤田などにも生まれた。 これとは別に琉球処分に前後して本土からたくさんの寄留商人が移住してくるようになり、かれらは本土との本格的な遠隔地交易を始め、新文化をもたらすようになる。かれらは当初、地元民の屋敷を借りて営業し、これをヤマトマチヤといい、那覇における店商いの始まりとなった。以後これが発展して、火災なごを契機として本土風の商店建築が増加し、久米大道・東町一体は商工区地域となっていくのである。以上のことは那覇の町形成は寄留商工民の活動と密接に関係していたことを示している。こうして那覇の商工は、ひとつは、マチグァーの段階からマチを経て公設市場に到る在来の系譜(女が中心。域内交易中心)を受け継ぐものと、もうひとつは、新しく遠隔地取引を行う本土からの寄留商人によるマチヤ商いとの、まったく別種の形態が共存、ないしは複合して成立してきたのである。同様の構造は八重山の石垣四箇においても指摘できるが、石垣の場合には、地元民の商工民化が那覇はよりもさらに乏しく、本土からの寄留商人に加えて、沖縄本島からの寄留民、さらに宮古島あるいは周辺離島の出身者を商工業従事者として迎えいれていった。
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