研究概要 |
朝鮮国において,『西遊記』の受容は高麗朝から明暸な足跡を辿ることができる。〈朴通事〉に見える元本「西遊記」はその好例であろう。朝鮮朝では,明国との交流から戯曲・小説が多数もたらされた。明末(光海君時代)の朝鮮文人・許〓は,明刊本西遊記を読み,娯楽に適すると述べた。しかし,いかなる版本かは明示されなかった。ところが,最近発見した瓢箪〓蔵李卓吾先生批評西遊記は,朝鮮朝の文人・朴淳益の旧蔵で,しかも清刊本西遊記の第九回を鈔補することから見て,明末には,朝鮮には明刻(清初印?)『李卓吾先生批評西遊記』が入り,ついで清初には『西遊真詮』等が将来されたことが判明する。明末から清代にかけて,朝鮮では中国小説の影響を受け,翻案小説・ハングル訳小説が陸統と編撰された。『西遊記』も一部ハングル訳を受け,「唐太宗伝」という名称で刊刻され,数種の版本が現在残る。朝鮮の人々には,当時の中国語が難解であるため,小説読書用に,〈水滸伝語録解〉〈西遊記語録解〉(ソウル大学校本)なども編集された。一方,『西遊記』の浸透によって,『青丘永言』・『歌曲源流』などの民間曲辞にも,孫悟空や唐三蔵を詠みこんだ歌辞が作られ,人口に膾炙した。 朝鮮国とは別に,琉球国にも江戸後期ごろ『西遊記』が伝来したらしく,那覇などに〈三蔵取経〉の民間説話が口伝で伝えられている。しかし,つい最近の発見であって,今後,更に内容を検討する必要がある。 中国では,南通市において僮子戯という地方劇の中に『西遊記』がとりこまれ,〈神書〉という名で巫術と結合した形で,その地の住人に受容されている。ロンドンの大英博物館にある年画〈五庄観〉も,清代の『西遊記』が民間で絵物語として広まっていた,一つの例証と言うことが出来よう。
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