研究概要 |
1707年にスコットランドとイングランドは「合邦」した。当時スコットランドではさまざまな反対論が提起されたが,これを推進した動機は,スコットランドを先進国イングランドの政治的・経済的・社会的な枠組みに編入することによって祖国の「近代化」,とくに経済の「近代化」・経済開発を遂げようとしたことであった。しかし,その効果はすぐに現れることはなかった。こうして1730年前後には合邦論争期の議論を反省的に捉え返す経済提言も現れるようになった。まずスコットランドの経済主体の未熟さが剔抉され,その淘冶・形成の問題が論じられた。ついで,経済主体を,形成される主体と形成する主体とに明確に区別し,しかも,形成する主体=政策主体は「ビジネスの環境」を究明し,その成果のうえに立った施策を行なうべきだと主張された。かくしてスコットランドの「経済改良」思想の史的展開は新しい段階を迎えることになった。すなわち,「ビジネスの環境」の正確な吟味=経済学的認識の重要性が強く痛感されるようになったからである。これ以後,スコットランドの改良の提言者たちは,形成される経済主体は潜在的ないし自然的には伝統社会の習慣から抜け出しているとみ,その顕在化や現実化の方途を経済学的認識の鍛練とからめて深ることになったのである。これにたいし,ブリテンの「植民地状態」にあった同時期のアイアランドでは,合邦論争期のスコットランドと同様,ブリテンの経済的枠組みへの編入によるアイアランドの経済発展・経済開発を目指す経済提言が見られた。こうして,アイアランドはスコットランドに後れをとることになったのであるが,それは,スコットランドにおけるスミス経済学の成立と18世紀末からの経済成長として帰結することになった。その意味で,1730年前後のスコットランドにおける「経済改良」思想の展開の歴史的意義は評価されなければならない。
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