研究概要 |
古来の漢字熟語である自然は現代語としてはまず第一にnatureの訳語として意識される。漱石とその時代がその転換期にあった。そしてnatureとしての「自然」は精神に対して,外的経験の対象である客観的存在を意味し、従って二元論を前提にして成り立っているが、「自然」は人間に対して圧倒的に大きな存在となっている。これに反してインドの代表的二元論哲学であるサ-ンキヤ哲学においては「自然」は精神の支配下に置かれていて,精神から切り離された独立の存在意義を有するものとは見なされていない。サ-ンキヤ哲学は民衆的叙事詩『マハ-バ-ラタ』において中心的思想の位置を占めたのみならず,後のインド思想に対して広汎な影響を及ぼし,ヴェ-ダ-ンタ哲学やヒンドゥ-教神学の一元論の枠組みの中に組み込まれた。また般若経など大乗経典の無差別思想にも影響を与えることになった。この亊実は自然概念がインドでは西洋的な意味での二元論の方向には向かわなかったことを意味する。 この相違が生まれた原因は西洋におけるnatureの概念の特異な展開に帰せられるであろう。現代語としてのnature等及びその語源であるギリシア語やラテン語においては,天然に生成されたものを意味し、さらに生成変化のもとになる本性・本質を意味している。インドでも亊情はほぼ同様であって、サ-ンキヤ哲学及び叙亊詩においてprakrtiやsuabhava等の語はそのように用いられている。近代西洋ではこの中から純粋に外的・客観的な意味での「自然」が独立したが、インドでは主体をも含めた、主体的な本性・本質としての意味を保ち続けていた。また大乗仏教を介して中国哲学においては性の思想の展開として理と気の哲学を成立させた。こうして自然概念が東洋ではその重要な思想的特徴をなす万有一体観を支えることになった。 今後さらに個々の問題に関して実証的研究を進めて研究を大成したい。
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