表記の課題の研究のため、2次にわたる現地調査を実施した。 1.屋久島と種子島の事例。屋久島が海抜1900メ-トルを超える山地を有する急峻な地形の島であるのに対して、種子島は、平地が多い。海峡をへだてる2地域、南種子町と上屋久町の敗戦前までの生活状況は、以下のようであった。南種子町では、水田稲作とサツマイモを中心とする畑作がさかんであった。それに対して上屋久町では、漁業・林業と若干の畑作がおこなわれた。 明治の末ころまでさかんであった両島間の物々交換では、屋久島からのサバとその加工品を種子島にもっていってサツマイモや米と交換するというのが一般的であった。白米は、サバの生のもの・塩サバ・サバ節とだけ交換された。サバ節製造の時、大量の頭が余るが、それは塩辛としてサツマイモと交換したり、ゆでてから乾燥してやはりサツマイモと交換したりした。サバの頭の乾燥品の用途は、水田への肥料であった。これは、琉球最南端の八重山諸島で畑作の島・黒島から稲作の島・西表へ水田の肥料として灰がもたらさていたのとよく対応する事例で、物々交換をおこなう理由が、食糧を生産できない漁民の側にだけあったのではなかったことを示すものである。 2.宮島群島多良間島と水納島の事例。水納島は、砂地で畑作も困難であるため、専業的な漁民の島であった。捕れた魚は、乾燥して畑作中心の多良間島へ運びサツマイモや麦と物々交換した。こうした交流は、昭和の初めころまでつづいていた。 ーまとめー 本研究の結果、琉球孤には、北の端から南の端にいたるまで、隣りあう島どうしの交流と交易が、広く分布し、地域によっては昭和の初めころまでかなり広範におこなわれてきたことが明らかになった。
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