北宋と南宋の違いの一つに、士大夫の地域社会への係わり方がある。一般に南宋士大夫は在地的性格が強く、自己の出身地を活動の基盤とする傾向があるのに対し、北宋の場合、むしろ故郷から離れ、退休後は任官中に手当しておいた土地で余生を送り、墓も故郷とは別の場所に作るという例が多い。明・清の郷紳につながる士大夫の印象は、あきらかに前者のものである。もし、こうした違いが指摘できるのであれば、北宋から南宋への移行は、政治史上の意味だけに留まらず、地域社会の構造変化をも示唆するのである。しかし、このことは更に実証的に考究されねばならない。確かに著名な北宋士大夫、范仲淹・欧陽修・王安石らは皆なそうであるが、少数の著名人以外、大多数の士大夫の動向がどうであったか多様な角度から検討されねばならない。 ここで取り扱った蘇軾の解試受験場所の特定も、この問題に接近する一つの事例研究である。既に申請書において述べたように、四川眉山県を本貫とする蘇軾は、眉州で解試を受験しなければならないはずであった。しかし実際に受験したのは、都の開封である。当時、様々な理由から都で応試する地方出身者の数は多く、政府は度々禁令を出し、また受験資格を制限した。軾の場合、資格がないにもかかわらず開封で応試できた最大の理由は、成都の知事であり中央の要職を歴任していた張方平の推薦を得たからであったと推測した。軾の父洵は、自身の応挙の際、応試は失敗であったが、この高官と何らかのつながりをもったらしい。息子の受験に際しその関係を十二分に利用し、また歴代、四川の高官は中央に人材を推薦する習慣があったこと、すなわち自薦原則の科挙にあっても郷挙里選の他薦原測は生きており、人間関係が法規に優先する状況を踏まえての選択であった。合格した軾は、父母の喪で帰郷した後、生涯眉山に戻ることはなかった。
|