本研究は悲劇のカタストロフィ的局面において喚起される情動と、それをもとにして達成されるカタルシスの心理構造を、ギリシア悲劇、エリザベス朝悲劇、わが国の古典劇悲劇の三者の間で比較考察することによって、普遍的な「悲劇論」のための根本概念の確立を目指すと共に、その一方で、悲劇が文化的風土や時代思潮によって帯びさせられる異なった様相を、主に受容の角度から明らかにしようとするものであるが、今年度は焦点をシェイクスピアの四大悲劇と近松の心中物(人形淨瑠璃作品)に絞り、両者に共通する演劇的受容の形態を明らかにした上で、「感情の形式」として両者の持つ美的ダイナミズムの類似と異同に光を当てようとした.特に問題にしたのは近松劇の道行から死にかけての場面と、シェイクスピア劇の第四幕における抒情場面との間の受容美学的見地よりする共通点である。そこに漂う甘美な情感と悲愴美によって観客の意識内部に胚胎させられる疑似的融和のヴィジョンは、悲劇性の転調への希求をはらんだ「虚の」過去と未来のイリュ-ジョンを作り出す契機としてはたらき、悲劇全体の意味形成に大きな影響を及ぼすと考えられる。今後の研究のための基礎作業として最も重要と思われたのは、ペ-ソスと悲劇的経験の関係である。ギリシア劇およびエリザベス朝劇ではペ-ソスは単なる受動的憐憫以上の価値を持つ。前者ではそれは宇宙の不条理に対抗する人間としての連帯意識を引き出す力として作用していたし、後者ではそれは観客の心を人倫の破壊者に対する道徳的弾劾へと駆り立てる能動的エネルギ-源にほかならなかった。他方近松の心中物におけるペ-ソスはそれ自体美的享受の対象であり、観客はその中に汲入して、超道徳的な陶酔へと誘われることを無意識のうちに期待するのである。このペ-ソスを媒体としてどのように悲劇的カタルシスが成就されるかを考えることが今後の研究の課題となるだろう。
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