1)1977年に始まるチェコスロヴァキアでの人権運動、憲章77はそれ以降の信国における異論派の運動の中心となった。憲章77は、既存の政治体制に対し、他の政治的選択肢を提示するという意味での「政治活動」を避け、体制が承認した国際規範や宣言、言体的には世界人権宣言、ふたつの国際人権規約、ヘルシンキ宣言などを論拠に、それらの内容を国内で実施するよう求めた。この点に運動の最大の特色があった。 2)当初、憲章77のヘルシンキ宣言とその後の全欧安全協力会議(CSCB)に対する期待は、必ずしも大きなものではなかった。しかし、その後、CSCEは憲章77の運動の基本的な支柱となる。CSCEは拘束力の弱いプロセスにすぎなかったが、憲章77の主張が西側諸国政府によってとりあげられることによって、国際的な場でその主張は政府の立場と対峙できた。また、その過程を通じて西側のNGOとの接触が深まった。こういった意味において、CSCEは憲章77の運動の「国際化」を可能にした。 3)また、CSCEが人権だけでなく、平和や環境など広範な問題を扱っていたことから、その影響下で憲章77が「人権」をより広い文脈でとらえるようになった。少なくとも運動はCSCEとのかかわりの中で、全欧州的な視野を獲得したといってよいであろう。 4)1989年の同国での政治変動において、憲章77が育てた人脈は大きな役割を果たし、また現在の政府にも多くの人材を送り込んだ。しかし、89年政変を単線的に憲章77の運動もしくはCSCEと結び次けることには慎重でなければならない。この政変は、国際的政治・経済環境の変容、国内体制の分裂と体制の自壊といった多様な結果生じたからである。とはいえ、政治変動初期において、「市民フォ-ラム」などが示した理念は多くの点で憲章77が積み上げてきた議論を引き継いでいる。少なくとも、理念的には、憲章77とCSCEは89年政変に深く結び付いている。
|