日本社会においては、中世ころより一般に女性に対する汚穢思想が高まるなかで、集落神社を中心とする村落祭祀から女性を長く遠ざけてきた。ところが一方、女性司祭者を不可欠の存在としてきた神社も多く見られ、これらの諸神社では、しばしば女性が祭祀の中心的役割を担ってきた。 本研究においては、瀬戸内地方や東北地方西部の神社神女を中心に、女性司祭の代表的存在でありながら十分な資料整理がされていない茨城県鹿島神宮の物忌職について取りあげるなかで、その梗概を明らかにするとともに、以下のような知見を得た。すなわち、日本社会では、集落神社の祭祀において男性性を基本原理とした祭祀体系が普遍的に行きわたってきたかの認識が広く定着している感があるが、今回の調査研究で得た資料からしても、近世までの社会においては、逆に女性性を重視した祭祀体系を採ってきた神社や地域が少なくなかったことが明らかとなった。そして、神社の祭祀から女性を遠ざけようとする考え方は、どうも明治維新以降の、神社神道が国家神道として再編成されていくなかで生じたものであることは、鹿島神宮の物忌職の廃止や秋田県下の神社神女の消減事例などからほぼ明らかといえる。 以上、本研究を行ったことにより、日本社会における公的立場の女性司祭者に関する理解を再考するための基礎的資料の収集はなし得たものと思われる。
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