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天津の形成とその発展に関する研究

研究課題

研究課題/領域番号 03801029
研究種目

一般研究(C)

配分区分補助金
研究分野 東洋史
研究機関筑波大学

研究代表者

片岡 一忠  筑波大学, 歴史・人類学系, 助教授 (50092515)

研究期間 (年度) 1991
研究課題ステータス 完了 (1991年度)
配分額 *注記
1,200千円 (直接経費: 1,200千円)
1991年度: 1,200千円 (直接経費: 1,200千円)
キーワード天津 / 大運河 / 国都 / 中原の政治圏 / 江南の経済圏
研究概要

1、大運河は宋代まで中原の政治圏と江南の経済圏を結ぶ大動脈であった。ところがモンゴル族の王朝、元が国都を北原の大都(北京)に定めたことにより、黄河以北に運河を延長する必要に迫られた。しかし当時の土木技術では大型船の自由航行を可能にする運河を開くことは不可能であり、かわって外海での輸送が主流となった。明代に永楽帝が北京を都にしてこの問題が再燃したが、技術の進歩により北京と江南を結ぶ大運河が完成した。大運河による輸送は19世紀前半まで続けられ、南北の政治、経済の結びつきをつよくした。
2、元代、北京が国都となり、江南の物資が北京に運ばれるようになると、天津が形成され、発展した。すなわち、大型船(外航船)渤海から天津(直活寨,海津鎮)に入り、ここで小型船(内航船)に積みかえて白河を溯り通州から北京に入っていった。天津は国都の外港として政治軍事上、経済上重要な位置を占めた。このことは明代、大運河による輸送が再開されても変化なかった。1405年には天津城がつくられ、天津三衛の1万6千の軍隊が駐屯した。天津は各地の物資の集散地、製塩地(長〓塩)として繁栄した。清代になり清朝体制が安定すると、天津は行政上の地位を得た。1731年に天津府,天津県が設置されたのである。19世紀に入り大運河の地位は徐々に低くなるが、天津は1861年に開港し、ふたたび外への窓口として新たな発展をみせ、商工業都市となった。
3、天津は国都が北京に定められたことで発展した。寨,鎮,衛という軍事上の拠点から、県、府、市(直轄市)という行政上の中心への変遷がそのことを如実に物語っている。
当初の目的である国都、大運河と天津の関係についての歴史的変遷を概観することができたが、もう一つの目的である天津自体の都市的発展については十分に解明できたとはいえない。

報告書

(1件)
  • 1991 実績報告書

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公開日: 1991-04-01   更新日: 2016-04-21  

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