研究概要 |
1.鋳鉄鋳物は基本的にリサイクル品であるため,資料数は少ないだろうとの予想に反し,中世の鍋釜資料について,消費遺跡出土品・生産遺跡出土鋳型・社寺所蔵伝世品の実測図約150点を集成できた。これらは羽釜・口縁屈曲鍋・吊耳付鍋・内耳付鍋の4器種に大別でき,12世紀〜16世紀の間の各器種の形態変化を検討した。また,羽釜・口縁屈曲鍋・内耳付鍋は中世を通じて生産・消費されたが,吊耳付鍋は14世紀に出現し次第に鍋の生体を占めるという器種構成上の変化も明らかになった。 2.地域によって異なった器種が用いられたことも判明した。まず,畿内を中心とする地方では,羽釜・口縁屈曲鍋・吊耳付鍋が,竈・金輪(五徳)をともなって併用されたが,その他の西日本の各地では,口縁屈曲鍋と吊耳付鍋が煮沸用の主要な器種であった。一方,東日本では中世を通じて内耳付鍋が主要な煮沸形態であり,西日本では青銅で作る仏具もここでは鉄沸や鉄鉢のように鋳鉄鋳物で製作されることもあった。 3.湯立て神事等に使われた伝世品の「釜」を,その形態・装飾・銘文などに注目して型式分類すると,河内・大和・京都・能登などの各地の鋳物工人集団の製品として峻別できるものがある。その流通域は中世の後半では,国境付近で交錯する場合もあるが,ほぼ一国単位程度の範囲である。また,京都と近江,大和と伊賀,河内と紀伊北部などの隣接する地域に同系統の鋳物工人集団がいたことも明らかになった。 4.こうした鋳鉄鋳物を生産したのは,「鋳物師」と呼ばれる工人であった。鋳造遺跡の調査成果から,かれらは鍋釜ばかりでなく梵鐘のような青銅鋳物も手がけ,銅鉄兼業の生産形態をとるものが多くあったことが想定できる。また,生産工房は鋳物砂の産地周辺に立地する場合が多く生産に必要な固定資本の大きさから考えて,商業的遍歴はありえても,移動的操業は比較的少なかったものと推定できる。
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