研究課題/領域番号 |
04044147
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研究種目 |
国際学術研究
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配分区分 | 補助金 |
応募区分 | 共同研究 |
研究機関 | 早稲田大学 |
研究代表者 |
近藤 一成 早稲田大学, 文学部, 教授 (90139501)
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研究分担者 |
マクマーレン D. ケンブリッジ大学, 東洋学部, 教授
マクデモット J.P. ケンブリッジ大学, 東洋学部, 講師
土田 健次郎 早稲田大学, 文学部, 教授 (00120923)
MCMULLEN David Faculty of Oriental Studies, University of Cambridge Professor
MCDERMOTT Joseph P. Faculty of Oriental Studies, University of Cambridge Lecturer
D.マクマーレン ケンブリッジ大学, 東洋学部, 教授
J.P.マクデモット ケンブリッジ大学, 東洋学部, 講師
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研究期間 (年度) |
1992 – 1993
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研究課題ステータス |
完了 (1993年度)
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配分額 *注記 |
3,400千円 (直接経費: 3,400千円)
1993年度: 1,600千円 (直接経費: 1,600千円)
1992年度: 1,800千円 (直接経費: 1,800千円)
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キーワード | 中国史 / 中国思想史 / 唐代社会思想 / 公私観念 / 道学 / 宋学 / 官学 / 友情 / 中国 / 朱子学 / 福建 / 公私 / 天 / コンテキスト |
研究概要 |
洋の東西、歴史の古今を問わず、政治と思想は密接な関係にある。とりわけ聖権と俗権が一人の天子に集中する前近代中国にあっては、その傾向が著しい。その中国史において、宋代は特に政治の世界と思想の世界が、大きく重なり合う時代である。新しい社会構造と政治体制の出現は、新たな秩序付けの理論を必要とし、個人の内面から宇宙の構造までを通貫する論理によって体系的に把握せんとする道学は、この要請に応える思想であった。従って、道学派の思想的営為は多分に政治的行為ともなり、その学派の形成と拡大は、思想内容と現実社会との関連両面からの考究、すなわち思想史と政治史共通の検討対象であり、本共同研究の格好の課題たり得る。今回は、この道学派の問題を日本側が扱い、英国側はさらに広く、その前の唐代について「公と私」(マクマーレン)、後の明代について「友情」(マクデモット)の観点から中国における思想と社会の相互関連を考察した。 土田は、思想史の立場から道学派の形成を考察した。先ず、従来の中国思想史研究の多くが、思想史の設定された枠組みの中で完結する叙述に止まることを批判し、また近年、歴史研究の成果を積極的に導入する必要性が指摘されながらも、それが十分思想史研究の内的構造に組み込まれていない現状を反省して、方法論上の問題点を挙げる。それは、個々の思想自体と、それが思想史として記憶された姿が往々にして乖離するからであり、しかも思想家たちは多くの場合、自己の思想の思想史的必然性を闡明にすることでその思想の説得力を増そうとする。従来の思想史がそれぞれ「経学史」「儒教史」などの枠内で整然たる叙述が可能であった理由は、思想そのものを歴史的に再把握するよりも、思想史として記憶されたものを連結していったからであるとする。例えば経学史であれば、清朝でなされた漢学と宋学という分類をもとに、その漢学を清朝考証学と漢唐訓詁学に分け、宋学を宋学と明学に分ける。更に宋学を今度は正学・実学・道学に分けるというように代入を繰り返していくのである。そこで、現在必要とされる方法は、先ず個々の思想が出現する状況の具体的把握を通してその実態を検証すること、次にそれらの思想が思想史として記憶されていく過程を追跡し、この両者をはっきり区別して検討することである。そしてこの両者は、例えば北宋道学の実態と、朱熹が儒教及び道学内部における自己の思想の正統性の表明のために北宋道学を思想史の中に定式化した姿というように、ともに思想史研究に必須の検討対象であるとして、従来の方法論的不備を指摘した。その上で、道学派形成の具体的問題として、道学派が士大夫社会の中で自己を主張した際、最初に衝突することになる王安石の思想・学問の構造を初めて体系的に解明し、程頤に代表される道学の構造と対比して、両者の特色と衝突の必然性を考察した。更に程頤と対立した蘇軾の学問とその衝突の特色、朱熹の蘇軾批判は程頤と軾の対立の実際というより朱熹の構想する道学形成史からのものであることを確認し、また思想・哲学論議の場が北宋の上奏文から南宋の書簡や語類、すなわち公から私に移行する傾向のあることに注目した。 近藤は、朱熹没後の道学派の拡大について考察した。慶元偽学の禁からも分かるように、道学は朱熹の時代、正統思想の地位を獲得していたわけではない。しかし朱熹没時、朱門が最大の学派勢力であったことも事実である。道学派内での主導権を握った朱門が、如何にして社会と統治階級のなかに地歩を固め官学の地位を獲得していったのか。この過程を中央政界、地方政治、郷村社会のそれぞれの段階で検討するとき、特に後二者の場合、朱熹の女婿で朱門高弟の黄〓の存在が注目される。50才で、それまでの修養・講学の生活から恩蔭出身の非エリート地方官として官界に入った黄〓は、典型的な道学派官僚として任地での統治・教化一体の活動に邁進する。江西を中心に長江中下流域全体に及ぶその足跡を追うと、当時の社会が道学的思惟と実践を欲求していた現実を知ることができ、また官界にも黄〓を支える土壌が出来上がっていたことを確認できる。 以上の考察を、英国側報告の和訳を待ち、併せて刊行する予定である。
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