本年度は、1950年代初頭のオーストラリアの対日政策にいつて、イギリス、アメリカとの関係に焦点をあてつつ検討した。課題の一つは、1954年のオーストラリアの対日政策の転換の過程とその背景を、豪州政府の公文書をもとに跡づけることにあった。 1954年8月、豪州政府は閣議に於て、日本の共産化を阻止するために、それまでの峻厳な対日政策を転換し、日本を西側陣営に組み込むための「穏健な政策」を採用することを決定する。豪州政府のこの政策転換の背景にあったのは、アジアにおける共産中国の影響力の高まりと、他方で日本の民主主義的政治体制の脆弱性、特に日本の政局の混迷であった。「日本提携ありうべし」との認識は、豪州政府(特に外務省)に大きな危機感をもたらした。特にケーシー外相は、吉田首相との会見等を通じて、日本の中に中国との経済関係の強化を求める声が根強いこと、そして、この結果、日本の意図にかかわらず、日本が中国の影響力下に組み込まれてしまうことを懸念した。かくてケーシーは、政策転換のイニシアティブをとる。 同様の懸念はイギリス政府も抱いており、同年6月、英外務省は、「日中提携」を阻止するための対日政策の転換を記す文書をキャンベラに伝える。英政府のこの動きは、豪政府の政策転換を促す大きな契機となる。 だが、アジア情勢の展開に懸念を抱き対日政策の転換を急務と考える政府にとって、先の戦争い由来する根強い反日感情を抱く国民世論を説得するのは困難な作業であった。日本に対する「穏健な政策」は、過去の戦争を忘れた「対日宥和」と国民の目には映ったからである。 国民の厳しい反発を前に慎重に政策の運営にあたった政府はその後、戦犯問題、貿易差別問題、国際機関への日本の参加等さまざまな問題で、日本を西側陣営に組み込むべく重要なステップを踏み出す。特に貿易問題での豪政府の政策変更は。今日の日豪経済関係の基礎にある通商協定(1957)締結を促す重要な契機となった。
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