研究概要 |
明清時代,『西遊記』は小説として読まれる一方,演劇にもしくまれ,中国各地域及び東アジア諸国で流布した。一般的には,小説がもとになって,その後に演劇の〈西遊記〉劇が生まれたとされたが,実は世徳堂刊本西遊記から清白堂刊本西遊記が生み出され,それから楊致和編本・朱鼎臣編本,そして清代の『西遊証道書』が作られたことが判明した。他方,演劇では『楊東来先生批評西遊記』が明末清初に伝わり,小説系〈西遊記〉と演劇系〈西遊記〉が融合して,『江流記』という内府演劇が作られたのである。当時,朝鮮朝では,清朝に朝貢して,内府において〈西遊記〉劇を観ていたが,彼らは小説西遊記と演劇のそれとは全く同一の内容のものと考え,本国に戻っても格別には演劇西遊記について,言及することがなかった。そのような情況のために,演劇方面では,儒教倫理を基本にすえた『伍倫全備』劇のような〈忠〉〈考〉を説く演劇を,これも中国語学習用に使って受容した。朝鮮両班による〈西遊記〉劇の軽視は,結果として,鳳山タルチュウムに『西遊記』劇を活用したものの,その出典は小説であって,中国のように独自の〈西遊記〉劇世界を開拓するには到らなかった。これに対し,日本人は,明清代の小説『西遊記』諸本及び戯曲西遊記等を輸入し,その表面的理解に基づいて,伝統的な仏教思想をまじえて『五天竺』などの演劇を,自由裁量によって制作した。中国・朝鮮・日本三国は,小説『西遊記』を重視した点は一致するが,演劇では国情の相違によって,〈西遊記〉劇への扱いもかなり違ったものとなった。
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