研究分担者 |
マイケル モス グラスゴウ大学, 文書館, 館長
マーガレット リー 香港上海銀行, 文書館, 館長
デイヴッド メレット メルボルン大学, 経済学部, 教授
フランク キング 香港大学, 名誉教授
ジェフリー ジョーンズ レディング大学, 経済学部, 教授
エドウィン・グリーン グリーン ミッドランド銀行, 文書館, 館長
オリーヴ・チェックランド チェックランド グラスゴウ大学, 名誉研究員
ロンド キャメロン エモリー大学, 経済学部, 教授
ウベルト ボーナン ボルドー大学, 歴史学部, 教授
マツシモ ベッバー ケンブリッジ大学, セルウィン・コレッジ, 講師
石井 寛治 東京大学, 経済学部, 教授 (20012122)
浜下 武志 東京大学, 東洋文化研究所, 教授 (90126368)
西村 閑也 法政大学, 経営学部, 教授 (30061039)
KING Frank University of Hongkong
JONES Geoffrey University of Reading
GREEN Edwin Midland Bank
CHECKLAND Olive University of Glasgow
CAMERON Rondo Emory University
BONIN Hubert University of Bordeaux
BEBER Massimo University of Cambridge
MERRETT David University of Melbourne
MOSS Michael University of Glasgow
LEE Margarett Hongkong & Shanghai Bank
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研究概要 |
表記課題のもとに,日本をふくむ7ヵ国の銀行史家の間で調査が分担された研究組織は,1993年9月13日から16日までの4日間にわたって研究・討論を行い,さらに同17日,東京のいくつかの研究機関で補足調査に従事した。7ヵ国の銀行史研究者16名,および研究集会にオブザーバーとして参加した約40名の日本人研究者は,4日間の議論を通じて実り多い結論を得た。 日本開国の1859年をもって,太平洋につらなるアジア・極東地域は,そのすべてが世界経済の一環を形成することになった。本課題は,この時点からの一世紀を対象としたのであるが,この一世紀間,もっとも目覚しい発展をとげたのは,日本の銀行業であった。日本の金融は,安政の開港とそれにつづく明治維新の動乱のもとで,激しく動揺せざるを得なかった。だがそれにもかかわらず,日本は,アジアで唯一の,独立した,完全に近代的な銀行制度を築くことのできた国であった。何故に日本にこれが可能であったかは,この課題の主要テーマのひとつであった。この点についての我々の解答は,維新政府が数々の実験の末到達した結論,すなわち日本人による直輸出と,これに資金繰りをつける横浜正金銀行の設立であった。1880年に設立された正金銀行は,政府から種々の手厚い保護をうけつつ,よくその使命を果して,日本の貿易振興と通貨基礎の維持に貢献した。だが皮肉にもそのような銀行であったことが正金銀行に,1930年代以降,日本軍国主義の擡頭のもとで,軍部の資金庫役を与えたのであった。日中戦争,太平洋戦争をつうずるこの役割は,不幸にして正金銀行を1946年に閉鎖せしめることになったのである。 日本と対照的であったのは,アジアの大国,中国であった。もとより中国は古くから多くの銀行類似の組織をもっていたが,これを基礎に,早期に,近代的銀行をつくり上げることをできなかった。ましてや中国から国際進出する銀行の成立しうる要因も存在しなかった。とはいえ中国人が太平洋地域で銀行業に無関係であったのではない。中国と太平洋地域の銀行業は,アジアの全域で種々の事業を営む華僑が,本国,中国へ送金する必要から結合され,中国の外側で発生し,発展したのであった。このように,本国を出た人々が,本国の事業や家族へと送金することの必要から金融網,金融組織を形成する例は,太平洋地域では,アメリカ・カリフォルニアとイタリーとの関係についてもみることができた。カリフォルニアのイタリー植民者達の設立した最大の銀行は,アメリカ銀行であった。 アジア最大の中国にしてこのような状態であったから,アジア・太平洋地域は,日本を除いて,ヨーロッパ列強の銀行,すなわちイギリス,フランス,ロシア,ドイツがその銀行を配置する結果となった。このうちでは,イギリスがもっとも大きな存在であった。その代表例は,香港上海銀行である。同行はイギリス資本をもって1866年に設立され,たちまちにアジアの最大の,それも多国籍銀行となった。同行に代表されるイギリス系多国籍銀行の活発な活動こそが少くとも1913年まで,またある意味では,第二次世界大戦のはじまる1939年まで,ロンドンを世界最大の金融市場たらしめたのである。イギリスにかろうじて対抗しうるのは,フランスの銀行であった。パリが国際金融市場の地位を保ちえた一要因がここにあった。 アジアに権益を有する旧宗主国,ポルトガルは,日本開国のころには,その昔日の商権をふるいえなかった。したがってマカオとのつよい関係をもちながらも,ポルトガルがアジアに再び姿をあらわすのは,20世紀にはるかに入ってからのことであった。オーストラリアの銀行は,現代の強力なアジア・コネクションからは想像もできぬほどに,太平洋地域にたいしては無関心であった。それはまちがいなく,当時のオーストラリアが自らイギリスの植民地であったことに起因していたのであろう。 以上に明らかにされた成果は,すべて後記の図書に収められて,1994年に公刊される。また同年9月開催される,国際経済史世界会議(ミラノで開催)では,上記の論議が,各報告者によって要約的に紹介されることになっている。我々の成果が,アジア・太平洋地域の歴史の正しい認識のひろがりに貢献しうるものと期待している。
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