神経系内部の現象を記述するときに用いられる概念には様々なものがある。その中でも情報の流れ・相関・同期化・コーヒーレンスといった脳の創発的挙動にかかわる概念は脳の実験的・理論的研究において重要な役割を果たしているように思われる。 当研究課題に基づく本年度の研究において、これらの概念を数学的に明確にすることに取り組んだ。分析に用いた数学的概念は、加算無限個の有限値確率変数の組の持つ種々の情報理論的指標(エントロピーとそれから派生する種々の相互情報量)である。各確率変数は一つの要素(例えばニューロン)のある時刻での特定の観測量をあらわす。従って、要素の数と時刻の数を掛けた加算無限個数の確率変数を取り扱わなければならない。 この枠組は、神経系の挙動全体の空間上の一つの確率分布を決めることが出発点となっている。しかし、実験から得られる時系列は一般には複数個の確率分布を定め、しかもその中に標準的とみなせるものはなく、各分布が神経系の挙動の一側面を表現している。このことは、神経系の統合性・コーヒーレンスなどの概念は、神経系の構造のみに関するものではなく、神経系現象のどの様相に注目するか、に強く依存した概念であることを示唆している。 われわれの数学的枠組は簡単なものではあるが、それに基づく神経系の時空的挙動に関連する種々の概念の分析は、神経系を記述する際に用いられる諸概念が詳細な吟味を必要としていることを示唆している。脳の観測技術の最近の革命的進歩が脳科学の健全な発展につながって行く契機の一つとして「神経科学基礎論」の開始・展開が不可欠であると私は思うが、当研究はその方向にむけての一つの試みとなることを期待している。
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