本研究の主題は、ユダヤ人の聖典解釈が民衆にいかに浸透したかの考察であったが、ユダヤ教の枢要な教えである「神への愛」に注目し、以下のような成果を得た。 1.聖典と詩とイマジネーション:かつて孔子は詩を学することを聖人への必須の条件にしたといわれるが、詩を学することによって、人間のイマジネーションが限られた経験を超えて豊潤となり、しかもそれに方向性を与えるからである。詩経の巻頭「関雎」や聖書の雅歌は、男女の世俗的な愛を歌った作品であるが、これが「聖なる」書物に馴染むとすればその理由は詩のもつイマジネーション喚起力ではないか。 2.恋愛詩の聖典化と礼拝への使用:西歴七十年直後の時代に雅歌が聖典にふさわしいか否か論争のあったとき、ラビ・アキバという賢者が雅歌は至聖であると断じたといわれるが、それは男女の恋愛が神とイスラエルの民の愛を表現する最良の比喩であると認めたためである。その後、雅歌はユダヤ人の礼拝を通して人口に膾炙する。 3.恋愛と「神への愛」:「汝のこころを尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし」て神を愛するとは、ユダヤ人の聖典解釈によれば、「全き信頼と命を懸けて全財産を賭し」て愛することである。これほどの激しさは、異性に対する愛の激しさ以外に譬えようがない。人間の自然の情感の発露である恋愛感情は、それだけでは宗教的な愛に転化しないが、雅歌のメタファによって、神への愛の何たるかを例示する機能を与えられる。 4.まとめ:通常キリスト教で愛を論ずるとき、エロスとアガペーを対置してその質的な相違を概念化する思考が見られるが、ユダヤ教では、恋愛は神への愛を実感させる最良の比喩でこそあれ、抑圧の対象ではない。恋愛に対するある種の嫌悪を表現するアガペーの思想は、純潔に高い価値を置く文化に由来し、ユダヤ・ヘブライ的文化には強く現れないアイデアではなかったか。
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