研究課題/領域番号 |
05610287
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研究種目 |
一般研究(C)
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配分区分 | 補助金 |
研究分野 |
日本史
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研究機関 | 調布学園女子短期大学 |
研究代表者 |
外池 昇 調布学園女子短期大学, 日本語日本文化学科, 助教授 (80249078)
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研究期間 (年度) |
1993 – 1994
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研究課題ステータス |
完了 (1994年度)
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配分額 *注記 |
1,200千円 (直接経費: 1,200千円)
1994年度: 600千円 (直接経費: 600千円)
1993年度: 600千円 (直接経費: 600千円)
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キーワード | 古墳 / 陵墓 / 明治政府 / 豊城入彦命 / 上野国郡村誌 / 文久の修陵 / 地誌 / 群馬県 / 塚 / 山 / 宮内省 / 楫取素彦 |
研究概要 |
陵墓が社会の中にどのように位置づけられるかという問題は、知識人や政治家にとってでなく、陵墓に指定された古墳の周辺に生活する人々にとってこそ重要な問題であった。この研究では、このような視点から陵墓について考えた。つまり、民衆と古墳との繋がりについて考察したのである。江戸時代が終わって、天皇が国家の頂点に立つ明治時代になると、天皇の祖先の墳墓である陵墓が俄然脚光を浴びるようになた。中央政府も、また地方行政府も、それぞれの立場から、さまざまな古墳を陵墓として指定しようとした。そして、中央政府と地方行政府との思惑は、必ずしも一致してばかりではなかったのである。そのような一致しなかった例の一つが、群馬県にある総社二子山古墳と前二子山古墳の事例である。これらの古墳は、当時の県知事楫取素彦によって、崇神天皇の皇子である豊城入彦命の墓として指定されるように中央政府に強力に推薦されたのである。県知事楫取素彦は、恐らくは自らの信ずる歴史観に従って、自分が統治する群馬県の中に、一つくらいは陵墓がほしかったのであろう。ところが、総社二子山古墳の場合はその指定が長く続かず、前二子山古墳の場合は指定を受けることすら失敗したのである。いずれの古墳の場合をとってみても、古墳の周辺に生活する民衆によって、古墳は生活の糧を得るために利用されていたのである。陵墓という概念は、そのような民衆と古墳との繋がりを断ち切るものであったのである。明治時代においては、民衆が表立って地方行政府の指導に抗うことは大変困難であった。その中でどのように民衆が行動したかという問題は、歴史学が、陵墓が社会の中にどのように位置づけられたかということを取り扱うに際して、大変重要な課題なのである。
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