貴族は身分制社会においては、家系を基軸に騎士領と管職を保持している身分である。そして、貴族は騎士領内では領地を私的に所有すると同時に、領民に対する公的法的権威者だった。この私的領域と公的法的領域は貴族身分のなかで融合したが、このことはシンボルによる支配システムによって強化されていた。貴族身分としての社会的地位にふさわしい態度、消費、結婚、狩猟権等がそれである。しかし、市場経済の発展と国民国家の形成は制度としての身分を解体し、貴族のなかの公的法的領域は国家に吸収される。19世紀初のプロイセン改革は、騎士領と管職を能力・財力ある者に開放して貴族への社会移動は進み、領主裁判権の廃止(1849年)、領主警察権の廃止(1872年)は貴族を法的に一国民として国家に統合した。貴族と領民との間のパターナリズムは消滅し、貴族は経済階級へ変身した。 新たな経済状況へ適応し、議会主義の政治状況に順応する貴族の姿は、ブルジョワと変わるところがない。しかし、シンボルによる支配の意識が貴族から消えたわけではなかった。貴族は19世紀末の農業恐慌を乗り切り、騎士農場や家族世襲財産を維持あるいは増大させたが、これは彼らが社会的地位の保全に努めた結果に他ならない。土地・農場は貴族にとって利潤追求の手段であるばかりか、家系への誇り、君主と人民の媒介体としての誇り、これらを育て確認する場であった。このことは貴族の結婚範囲に示されている。貴族女性の結婚相手は貴族男性に限定される一方、貴族男性の結婚相手が富裕ブルジョワ女性であったとしても、それは騎士農場所有の富裕ブルジョワ女性に限られていた。身分的差異意識と階級対立の重なり、これがドイツ第二帝制の社会の姿である。
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