西欧人は日本建築について、マルコ・ポ-ロ以後、どのようなイメージを描いてきたのか。著者はまず、「西欧における日本建築のイメージ〜マルコ・ポ-ロから19世紀末まで」と題して、建築史学会で研究の概要を口頭発表した。 西欧において日本建築が図版を伴って本格的に紹介されたのは、オランダ人のF.カロンによってであり(1661)、さらにオランダ人A.モンタヌスの『オランダ東インド会社遣日使節紀行』(1669)は、豊かな情報と多数の図版によって日本建築のイメージを決定的なものにした。ドイツにおいてはE.フランツィシが日本報告を行い(1668)、1660年代に西欧人は、日本建築のイメージを知識の上で共有するまでになっていた。しかし、実際に描かれていた建築の図版については、オランダとドイツではそのイメージに大きな隔たりがあった。カロンやモンタヌスが日本建築のモティーフを屋根の形や装飾に見出していたのに対して、ドイツではなお西洋式のままデザインされていたのだった。18世紀のドイツのおいて多数の中国館が建てられたが、これらの中国館に混じって、1790年代にベルリンのモンビジュ宮で日本館が建設された。同日本館は中国館とは異なり、簡素で開放的な形態をもち、建築史において中国と日本を差異化できた最初の作品となった。19世紀後期の日独の建築交渉史において重要な役割を演じた建築家は、エンデ&ベックマンであった。著者は、彼らによる日本の官庁集中計画に関して、著者ならびにシンポジウムにおいて研究成果を発表した。
|