敗戦直後の沖縄は、米軍の直接統治により、日本本土と切り離される形で独自の教科書編纂を余議なくされた。 1[編纂・発行]1945年8月に沖縄教科書編修所、次いで1946年1月には沖縄文教部が設置され、そこで国語教科書は各学年に一冊ずつ編纂された。初等学校は「続み方」、高等学校は「文学教材」の書名で、ガリ版印刷によって発行された。「国語」の名称は、米軍当局から許可されなかった。 2[編纂方針」戦前の軍国主義・超国家主義教材とともに、日本的教材も厳格に禁止された。 3[改訂]学年によっては複数のガリ版印刷の教科書が発見されており、時期を追って改訂しようとした跡が窺われる。少なくとも1946年版、1947年版の二種類くらいは作成されたようであるが、詳細は不明である。 4[編纂者]国語教科書の編纂者としては、仲宗根政善編集課長(現・琉球大学名誉教授、方言学者)を中心に、安里延・喜久里真秀(以上、初等学校担当)、喜味田宗栄(高等学校担当)などが精力的に当たった。 5[使用期間・範囲]本教科書は、1946年から1948年の初頭にかけて、本土から文部省著作の教科書が届けられるまで、沖縄本島・宮古島・八重山群島などの南西諸島で使用された。ただし、当時同様に米軍の直接占領下に置かれていた奄美群島では用いられなかったようである。 6[取材源](1)戦前の国語教科書(サクラ読本・アサヒ読本)を中心にしているが、修身教科書からも取材されていて「守礼の邦」らしさを窺わせる。(2)沖縄に関する固有の教材は、郷土の偉人蔡温・野国総管の話や、郷土の話題「首里城址の赤木」などがあった。(3)日本からの分離の反映としては、戦前教材の元号が西暦に改められたり、「わが国」が「沖縄」に替えられたり、日本の象徴「富士」という語句が削除されたりした。
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