拙論「隠喩の忘却もしくは法の後に-『文心雕龍』比興篇から-」において六朝期の「隠喩」論の概要を考察したのを受けて、今年度はその意味を検討するのに費やした。具体的には、六朝期までの言語論の総括的な見直しを行い、自らを隠す「隠喩」に結実する言語の退隠の歴史の意味を中心に据えた。 当初は、フランスの文学批評のテクストを通じて、その意味を考察する予定であったが、J.G.A.ポ-コックの論考に触れたことで、予定を変更し、彼の中国古代の言語思想に対する研究を吟味した。それは「政治思想史の再構築について-J.G.A.ポ-コック「儀礼、言語、権力」序説-」として結実したが、ポ-コック自身が文学と現代哲学(特に言語の哲学と呼ばれるもので、フランスの哲学も含む)に極めて造詣が深いことから、中国ともヨーロッパとも距離を取り、それを踏み越えるような特異な研究となったと思われる。一言で述べるなら、「隠喩」の政治性が明らかになったということである。ポ-コックはそれを「言語の政治学」と呼んでいる。 ただ、ポ-コックの研究が漢以前に集中しており、漢代がやや薄かったため、それとは別に研究を行い、『春秋繁露』の言語論を考察することで補った。この成果は、『中国思想入門』の項目の一つとして書いた「名・文」の中に現れたと思う。 今後は以上の成果をもとに、もう一度六朝期の言語論を見直し、特にその政治性の研究に力を入れていきたい。
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