今年度の研究においては、1920年代後半から1930年代前半にかけて、日本に導入されたエ-ミール・ブルンナー、カ-ル・バルトらの弁証法神学の受容と定着過程を、代表的な神学者である高倉徳太郎、熊野義孝、桑田秀延の著作、および新聞『福音新報』を中心にして分析を試みた。その結果、以下のことを究明することができた。 (1)弁証法神学に最初に着目した高倉は、シュライエルマツハ-に由来する近代自然神学を批判し、「危機神学」(ブルンナー)の積極的意義を見出した。しかし同時に彼の立脚する正統主義の立場から、「危機神学」に対して一定の距離を置いていた。 (2)弁証法神学(とりわけ初期のバルトの思想)を、積極的に導入、展開したのが熊野、桑田である。彼らは、バルトの弁証法神学の中に、新正統主義を見てとった。しかし彼らは、バルト自身が批判しているように、弁証法神学の持つ社会倫理を捨象しね教義学のみを取り上げた。その結果、日本における弁証法神学は、キリスト教会の中だけに限定されることになり、またここに、ドイツにおける弁証法神学の展開と日本におけるそれとの間に差異が生じた。 (3)当時キリスト教界で広く講読されていた『福音新報』も、弁証法神学について紹介している。しかし、原則的に熊野、桑田の線で理解された弁証法神学が紹介されている、と考えられる。 以上の考察を踏まえて、次のような仮説推論理が成り立つ。弁証法神学は、本来、近代自然神学を批判し、人格的主体としての覚醒を喚起するものであった。しかし、人格意識の希薄な日本においては、弁証法神学の本質は形骸化され、その形式的側面のみが導入された。別言すれば、日本的精神風土との対決のないままに、むしろ日本的精神風土の土台の上に、弁証神学は導入されたと言える。
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