日本近代文学の思想のなかには自らの存在を制度外的存在(一般的に言えば「罪」ある存在、余計者、故郷喪失者等)として意識する傾向が強く見受けられる。このような自己意識は、社会の諸制度のみならず、人間の倫理的理想像を近代西洋の市民像の理念型である理性的存在においた日本の社会的意識と密接に関わりがあると考えられる。即ち、この倫理的理想像は、現実の日本人にとっては極めて抽象的な、それ故に、極めて観念的なものであった。この為この像と無意識の比較の上で捉えられた現実の自己像は多分に否定的な存在として意識されざるを得なかった。しかも彼らは伝統的規範のうちに生活を営む一般的存在(所謂庶民)と自らが異なるという強い自己意識のうちにあったが故に、そのような一般的存在(或いは電灯的規範)に対して負い目の感覚をもっていた。そういう二重のコンプレックスが極めて自罰的な色合いの濃い、「罪」ある存在としての自己という意識を作りあげたのである。従ってこの「罪」意識は、特異な自己という強い自己意識と不可分に関わるものであって、たとえば一般的に言われる西洋キリスト教社会の人間の存在一般は罪のある存在として捉える思考様式(但しこの点については研究者の研究は十分なものではない)とは多分にその性格を異にしているであろう。以上、本年度の研究実施計画(1)、(2)、(4)に沿った研究の成果の簡単なまとめであるが、諸々の制約によって実施計画(3)に記した日本の仏教思想の中に強くみられる「罪」の思想との関連は十分に研究されなかった。この点と、上のキリスト教的「原罪」思想の再検討が今後の研究の課題である。
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