研究概要 |
幕末期の松前を中心に活動した画家,早坂文嶺の経歴については,これまで、河野常吉による「松前藩の画師なり。奥州福島の人にして,弘化中松前藩に仕へ士籍に列す。最も仏画を善くす。其の蝦夷人を描くときは,殊に二司馬の号を用ふ。即ち夷語ニシパ,貴人の義,に採るなり。子元長は,明治元年正議派の一人たり」以上のことは不明であった。ただし,文嶺を四条派の画家である前川文嶺(1837・天保8年〜1917・大正6年)とする指摘があり,すでに資料目録など一部でそのように記載したものもみられた。しかし、本研究において、文嶺は1797(寛政9)年に生まれ、1867(慶應3)年に享年71歳で没したことや、松前に移り住む前に山形城下の旅籠町で表具屋を家業としていたこと、さらに,文嶺の父は山形市内に作品が相当数現存かる画家で、義川斎定信などと号していたことなどが判明した。作品については,文嶺の活動の本拠地であった松前町をはじめ青森県風間浦村やさらにはアメリカ合衆国ブルックリン美術館所蔵資料をふくむ24点を確認することができた。その中で年紀を有する作品は7点あり、それらは弘化および安政年間であった。これまで、文嶺はおもにアイヌ絵の作者として紹介されることが多かったが,アイヌ絵以外にも仏画や武者絵など,その画題は幅ひろい。画風としては,狩野派や浮世絵の影響が顕著であるが、四条派などの画風も見受けられる。ひとつの流派に位置づけることはかなりむずかしいが、技量的にはけっして低くはないと思われる。
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