畿内の竹状模骨丸瓦を収集した結果、大和5遺跡、播磨1遺跡を確認、主にこれらの遺跡および、関連する寺院地等について調査研究を行った。その結果大和でのこの種丸瓦の分布の中心は、出工量からいって飛鳥地域、特に飛鳥寺にあることが明らかである。飛鳥寺およびこれに近接する飛鳥池遺跡で、竹状模骨丸瓦とセットとなる瓦は、桶巻き作り縄叩き平瓦、素紋縁の複弁(まれに単弁)軒丸瓦、三重弧紋軒平瓦である。これらの瓦の組み合わせは、他の竹状模骨丸瓦出土遺跡においても、同〓軒丸瓦の出土によって確認できる。この一群の瓦および軒瓦は、7世紀後半のこれまで注目されていなかった一様式として設定することができ、しかも、奈良時代、8世紀には続かない、ごく短期間に限定できる点でも興味をひく。大和から離れた1例である播磨との間には竹状模骨丸瓦に関連する軒瓦が点々と分布しており、いずれ、その間を埋める史料が見出せよう。一方、畿内と九州との竹状模骨丸瓦を比較したところ、基本的な模骨の構造は同じだが、模骨側板や綴じ組の数、叩き板の種類、対応する軒丸瓦の紋様などで違いの存在することが明らかになった。また、竹状模骨丸瓦の起源として、これまで三国時代百済を想定する説が有力だったが、軒丸瓦の瓦当紋様の特徴などから、むしろ高句麗を起源とする可能性が強いとの結論に至った。初期の我が国の造瓦技術が多様な歴史的背景をもつことを、はからずも示すことになったと考えられる。なお、竹状模骨丸瓦の調査成果ならびに研究成果は、データベース化を行った。
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