古代都城のうち、発掘調査がもっとも進展している平城京について、報告書・概報等により公表されている遺構データを、数値情報および遺構平面図の形で、条坊ごとに収集・整理した。この基礎データに基づく条坊復元と宅地内建物配置の本格的解析は、次年度以降に実施する予定である。 上記の基本作業と並行して、本年度は、とくに柱位置の決定に際して方眼を利用したと考えられるものを抽出し、方眼設定の状況と、その時期的な変化について分析を行った。対象としたのは、平城京左京三条二坊の長屋王邸、平城宮第II期内裏、平城宮中央区大極殿地域第II期(西宮)である。 これらは、いずれも一辺長がほぼ10尺の方眼を用いており、かつ区画全体の東西長が10尺の偶数倍となる関係から、中軸線上に柱がくるのを避けるために、方眼の交点をずらす工夫がなされている。しかし、三者を比較すると、その処理方法には明確な相違があり、奈良時代の中での技法上の進歩をたどることができる。 まず奈良時代初頭に位置づけられる長屋王邸では、機械的な10尺方眼を設定しているが、正殿の桁行総長を80尺(8方眼)とし、両端の柱間のみ15尺(1.5方眼)にとる。これは、ほぼ同時期の平城宮第I期内裏正殿にも認められる、原初的な手法である。次に、奈良時代前半〜中頃の平城宮第II期内裏では、南北630尺、東西600尺の区画内部を、南北は63方眼、東西は59方眼に分ける。このため、柱間は等間となったが、方眼の一辺長は、南北10尺に対し、東西は10.169尺と異なることになり、部材寸法の統一性という点で問題を残した。これを解消したのが、奈良時代後半の平城宮西宮である。ここでは、築地回廊内側柱間576尺を57方眼、南北303尺を30方眼に分割して、方眼の一辺長を東西10.105尺、南北10.100尺と、事実上一致させることに成功したのである。
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