漂流記の大多数は、近世末期に集中して現れる。いわば近世末期、漂流記は文芸の一ジャンルを形成していた。「紀行」でありまた「実録」である「漂流記」の多くは、「読み物」として読み継がれたのである。明治期以降も漂流記物が「読み者」として人気を得たのは、漂流記が文芸の一ジャンルと化していたからにほかならない。漂流記の流布に関しては、蘭学者や好事家のネットワーク・貸本屋の存在などが考えられる。実際の写本総数から見て、漂流記集の形で漂流記が流布したのは全体のおそらく一割程度であろう。ただし、それら特定の「場」に漂流記は集合し、そこから複写される形で流布していった。特定の漂流記が流布する契機をそれら漂流記集が加担した割合は高く、それらを集中的に管理・保存し、全体として流布される役割を「漂流記集」が果たした。当初『海外異聞』がもった積極的な「規範」のみを予測したが、例えば漂流記集の系譜が地域別・時代順という配列を取ることが殆どなかったというようなマイナ-な規範をも『海外異聞』が作り出した気配がある。またそれは漂流記の文芸的価値が資料的価値を上回ったことをも示す。これをもっとも端的に表すのが、明治に入って成された石井研堂の集成であろう。彼の成した数次の漂流記集成は、間違いなくそれらの文学的価値に保証されていたし、彼の集成によって「文学としての漂流記」は、明確に再浮上することとなった。特定の漂流記が人口に膾炙するに至る過程は、考証随筆や実録を思わせる。同一の素材が変化することは写本型文芸の通例であるが、それよりもなお大きな幅で物語化する場合があることは、このジャンルの特性といえる。「聞き書き」である「調書」が一人称の「語り」と化し、さらに「物語」化する過程を具体的に示す事例にはこと欠かない。漂流記を「圏外文学」としてではなく近世後期の文学状況の内に位置づける作業が今後必要となるであろう。
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