本研究においては、聖書とミルトンの作品のインターテクスチュアルな読解を、17世紀当時の急進主義者の著作との比較としうコンテクストにおいて考察するという方法論をとりつつ、さらに研究の視野を拡大して、ミルトンと17世紀急進主義者における終末論の比較研究を行い、J.F.WilsonとB.S.Cappの主張する<預言者的>終末論と<黙示録的>終末論の区分を援用して、ミルトンの作品にあらわれる終末論を<預言者的>終末論と<黙示録的>終末論の混在として位置づけた。しかしながらその過程でテクスト分析を行ううちに、聖なるもの、語りえないものを言語化するという行為のはらむ詩人の葛藤に焦点をあわせることこそ、たとえば終末論にみられるミルトンの揺らぎを説明することになるという確信をもった。ジョン・ミルトンが『失楽園』という叙事詩の創作によって試みたのは、絶対的な乖離という関係にある聖なるもの、まさに語りえぬものの沈黙を、自らの詩的想像力によって埋めることであった。ミルトンの詩的営為が堕落後の人間でありながら神のような立場に立って新たな聖なるテクストを創出せんとするものであるならば、それは先行するテクストとの絶えざる闘争であると同時に、詩人の内部闘争をともなっていたはずである。そもそも聖なるものの言語化とは、聖なるもの、なかんずく神的なるものが本来言語化不可能であるとすると、聖なるものについてよりも、聖なるものとそれについて語る主体との<関係>について、より多くを物語るものにちがいないのである。自身をモ-セを凌駕する詩人として意識しながらも、聖なるものの仲介者としてミルトンは、想像力の可能性とその限界のあいだで絶えず揺れつづけていた彼のテクストは、飛翔しつつ墜落の不安をつねに反映した、したがってアイデンティティの揺らぎをいやおうなしに反響させるものなのである。したがって本研究では、ミルトンの想像力の形成を時代のディスコースのなかで解明してきたこれまでの研究をその基礎として、さらにミルトンの主体の形成がテクストのなかにどのように反映されているのかを、急進主義者の終末論との比較において検討した。
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