第1次インドシナ戦争の結果ベトナム北半分が共産勢力ベトミンに支配された事態を重視した米国は、東南アジアヘの共産主義拡大を防ぐべく、「東南アジア条約機構(SEATO)」に結実する防衛機構を構想した.当時東南アジア諸国でSEATOに実際に参加したのは、タイとフィリピン(以下、比と略)のみである.だか両国は共に共産主義に脅威を感じたものの、集団防衛への対応は異なる。54年1月の大統領就任直後、比のマグサイサイ米国から、米も支援する防衛機構設立を主導するよう催促されたが断った。比をアジアの民主主義の模範とする理想を抱いていた彼は、ラウレルなど反米派にも影響され、対米追随と誤解され易い防衛機構に躊躇した。元来比は、ベトミンも含むインドシナの民族運動にも一定の理解を示し、東南アジア防衛に協力するとの米の約束も、米が42年に比を日本軍に易々と手放した記憶により疑問視された外、肝腎な時に遠くの米国が頼りになるかも疑問だった。しかし共産主義的なフク団という現実の脅威を国内に抱えていた比は強力な後援を必要ともしていた。比は国連にも世界の扶序維持を期待していたが、安保理でのソ連の拒否権行使の可能性から、国連の機能の限界も悟っていた。結局対米追随との印象を避けるため、仏がべトナム南半分のバオダイ政府に完全な独立を与えるとの条件でSEATO加盟を承諾し、条件が実現したことで比は加盟を決めた。対照的にタイは米主導の防衛機構案を終始熱烈に支持し、実現した際には機構軍用の基地を提供するとまで言明した。実現したSEATOを当時のピブーン政府と軍は、国内の反対派弾圧の新たな口実とし、タイは他の民主的なSEATO加盟国と親密な関係にあるので弾圧も「民主的」だと強弁した。彼らの共産主義への恐怖に偽りはなかったが、当時タイの共産主義は実際上は弱小であった。SEATOへのタイの極度に軍事的な対応とその受容は、国内政治への冷戦の転化の好例を示した。
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