本研究では、聴覚における情報処理過程を「聴覚系がその非線形な特性により、音の物理スペクトルを主観スペクトルに返還する過程である」と仮定した。また、その変換に際しては、聴覚系の特性の中でも、複合音の成分間に生ずるマスキング現象(相互妨害現象)が支配的であると仮定した。以上の仮定の妥当性を検証するために、聴取実験を行った。 まず、複合音の成分音間に生ずるマスキングが主観スペクトルの形成に及ぼす影響を明らかにするために、純音間マスキングに関する実験を行った。その結果、マスカ成分(妨害成分)とマスキー成分(被妨害成分)の間の位相関係により、マスキング量(妨害量)が変化することが示された。さらに、この純音間マスキングによって、マスキー成分のラウドネスが変化するが、その変化は従来知られていた雑音マスカにより生ずるものとは異なることが示唆された。以上の結果は、複合音の主観スペクトルの形成過程すなわち聴覚系における音の分析過程に、成分音間マスキングが大きく寄与していることを示している。 次に、主観スペクトルという概念の妥当性を検討するために、広帯域音の音色に関する聴取実験を行った。これは、音のスペクトルの差異は、主観的には音色の差異として知覚されることを利用した実験である。スペクトル包絡が異なる広帯域刺激音について音色の類似度を調べた。その実験結果に多次元尺度構成法を適用し、音色知覚空間を求めた。この空間における刺激音の布置(音色のプロフィール)に対応するのは、従来知られているような物理スペクトルではなく、成分音間マスキングを考慮して推定した主観スペクトル(これをマスクトスペクトルと称している)であることが示された。このことから、聴覚系における音にスペクトル表現は、物理的スペクトルとは異なる主観スペクトルであるという本研究で設けた仮説の妥当性が示された。
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