1920年代、西日本を中心に発生した小作料減額争議は、日本地主制の後退要因とされる。本研究は、この種の争議がなぜ発生し終息したのか、地主制にいかなる影響を与えたかを検討した。対象地は、農外労働市場が発達し、争議が多発した愛知県尾西織物地帯である。 尾西織物地帯の中心である中島郡奥町、今伊勢村では、小作料減額争議が1917年から発生し、21、22年に激化した。このなかで小作農は、10数%から30%近くの永久減額に加えて、一時減額を毎年のように獲得した。こうして20年代には、争議前契約小作料の30〜40%台が年々減額された。しかし27年以降、小作農は小作料減額を要求できなくなった。 一連の状況は次の要因によって形成された。第一次大戦下、機業を中心に工業が展開、その賃金と小作所得との間に著しい較差が生じた。較差は戦後恐慌後、農産物価格低下によって小作所得が抑えられたのに対し、工業の賃金が急騰したことで一層拡大した。労働力が農外に流出し、小作地が過剰に転じるなか、小作農は賃織や工業並みの労働報酬を意識し、小作料減額を求めた。しかし20年代後半には農外労働市場の収縮、とりわけ賃織の消滅で帰農者や新規就農者が増加し、小作地は不足に転じた。農外労働市場の収縮は、一度一定の成果=永久減額を勝ち取った小作農を、再び攻勢に出られない状態にした。なお、地主・小作農のいわゆる「協調体制」が争議を終息させた事実はなかった。 20年代の小作料減額争議によって、この地方の地主制は後退した。奥町では、実納小作料率が争議前の55%から20ポイント近くも低下し、土地利回りは6%から2%へと低下した。こうしたなか、中島郡の10町歩以上地主数は20年代に半減した。 しかし全国的にみて、尾西地方のように小作料減額争議が地主制を著しく後退させたと評価できる地域は、それほど広範には存在しなかった。[成果は学会誌に投稿中である]
|