1872年ドイツ帝国刑法典成立の前史を形成したドイツ普通法時代は、百花撩乱の様相を呈していた学説とともに、1813年バイエルン刑法典、1851年プロイセン刑法典など、ドイツ・ラント刑法典の立法活動の隆盛期でもあった。つまり、南ドイツの雄バイエルンや北ドイツの雄プロイセンを初めとして他のラントにおいても、近代的な刑法典を起草するべく多大の努力と紆余曲折が重ねられていたのである。これらのラント刑法典の中でも、1872年帝国刑法典に対して明白かつ絶大な影響を与えたのが1851年プロイセンラント刑法である。このことは、プロイセンを中心とした統一が1867年北ドイツ同盟を生み、また、統一的刑法典編纂の動きを急速に結実させていった、という歴史的経緯と決して無縁ではない。かくして、1851年プロイセンラント刑法典が1872年帝国刑法典に対して与えた影響は明白かつ絶大なものであり、両者間に実質的相違は殆ど存在しないと言っても過言ではない。我が国の刑法典の原典ともいうべきドイツ帝国刑法典及びドイツ刑法理論の貞髄を理解・考究するにあたっては、1851年プロイセンラント刑法典成立の過程を実証的に克明に研究・解明することが特に肝要なる所以である。 プロイセン刑法典の改正作業の時期は、第1改正期、第2改正期及びそれ以降に区分されることが多い。第1改正期は、司法大臣ダンケルマンによって改正作業の礎が築かれ、更にカンプツの独断的な主導によりカンプツ色の濃い草案(1833年及び1836年)が起草された時期であり、それに対して、第2改正期は、枢密院が改正作業に直接乗り出し、枢密院の下の委員会や本会議において合議が重ねられ、1840年の直属委員会草案を経て、1843年の枢密院草案の起草に至るまでの時期である。これらの時期には、それぞれに特徴があることが判明した。
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