今年度は、「女医」の社会的地位の確立過程という社会背景の中で、吉岡弥生(東京女子医科大学創立者)の言説を分析することにより、吉岡のファシズム体制への同調過程を明らかにした。得られた知見は以下の通り。 1.1912(明治45)年の東京女子医学専門学校の認可、1920(大正9)年における文部大臣の指定に至って、女子医学教育が社会的、国家的に位置付けられ、それまで賛否両論があった「女医」という存在もまた、社会的に公認されたといえる。それ以後吉岡自身も、民間団体や政府諮問委員会などの委員や役員を数多く務め、社会的地位を上昇させていく。 2.吉岡は著書『女性の出発』(1941年)において、東京女子医専を設立した動機を3点あげている。第1に済生学舎の女子締め出しへの対応、第2に中国へ派遣する女医の養成、第3に家庭衛生、母体の健康等の予防医学の推進である。しかし、第2、第3の動機は、設立当初のものではなく、戦時体制期という社会状況のなかで女性の社会的活動を積極化させ、女性の国家的活用を促す目的で述べているものと理解する必要がある。また、同書の中で吉岡は、「興亜の良妻賢母」としての「国家的、社会的自覚」や様々な職業分野への女性の進出、『東亜』という舞台」への女性の進出(軍医として)を奨励している。 3.以上のような吉岡の言説や、戦後、公職、教職追放の根拠とされた「戦時遂行への協力」行為(愛国婦人会評議員、大日本婦人会顧問、大日本連合女子青年団理事長、大日本青少年団顧問等の地位に就任した行為)は、女性の「国民的地位」を確立し、家庭以外の様々な分野へ女性の活動領域を拡大していくことによって、女性の社会的地位向上を目指したものと考えられる。
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