本研究者は、17世紀オランダのグロチウスによる「自由海論」の背景には、スペイン・ポルトガル勢力到来以前のインド洋及び東南アジア島嶼部における「自由なる航海と貿易」の原則と慣習があるという仮説をたてた。本研究者はこの仮説のもとに、16世紀の香料諸島の領有と丁香貿易の支配をめぐるポルトガルとスペインの史料から、第3国向けに展開した「閉鎖海論」とは異なりグロチウスの論説につながる要素を抽出する。 1512年末のポルトガル人の香料諸島到達はそれ以前の貿易の構造を大きく変化させることはなかった。ポルトガル人と香料諸島の交渉史における画期はその10年後、マゼラン遠征隊が到来しテルナテ島にポルトガル要塞が建設された1521年末から22年にあった。それまでは軍事的・政治的状況からして国王は貿易の独占を狙うことはできず、アルブケルケも私的な貿易を認めていた。従来の研究で強調されていたのは、1522年以降、ポルトガルは香料諸島における丁香貿易の国王独占体制が固まったということである。しかし、それは内部的な矛盾を抱えていた。すなわち、国王独占体制は香料諸島とりわけバンダ諸島を拠点とする民間ポルトガル人に敵視されていた。対スペイン民間人の協力を必要とする王室はこれに坑しきれず、1539年丁香貿易の自由化が決まった。香料諸島におけるポルトガルの「閉鎖海論」は第3国向けのイデオロギーであって、現地の貿易と航海はポルトガル人到達以前の自由な原則を回復しつつあった。これは、1530年代にテルテナ長官を経験し丁香貿易の国王独占体制を確立しようとして果たせなかったアントニオ・ガルヴァンの手稿『モルッカ諸島誌(1540年頃)』からもうかがえる。
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